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はじめに

 私は、かつて、北海道の札幌に長年住んでいて、小樽商科大学で教鞭をとっていました。
 私には、アメリカで暮らした経験が三度あります。
 一度目は留学生としてでした。太平洋岸のオレゴン州のユジーンという街に州立のオレゴン大学がありますが、そこに二年近く滞在して大学院を修了しました。それが一九五九年のことです。
 帰国してからは大学で教えるようになったのです。
 二度目のアメリカ生活は、それから一四年後になります。
 一九七三年の暮れから一九七五年の春にかけて、私は文部省の在外研究員としてアメリカへ渡り、母校のオレゴン大学で客員教授を勤めました。
 その時には、妻と中学一年の長女、小学校五年の長男が一緒でした。子どもたち二人は、現地の学校へ通い、夏休みには家族四人でアメリカ一周旅行をしたり、ヨーロッパを車でまわったりして、大変思い出深い一年を過ごしました。
 三度目は、それから八年後です。
 一九八二年になって、私はフルブライト上級研究員に選ばれ、今度はアリゾナ大学で客員教授を勤めました。
 アリゾナ大学の留学生となった長女と二人で、大学のあるツーソンという町に住んでいましたが、その時は、妻と東京外国語大学の学生であった長男は東京に残りました。
 この三度目のアメリカ生活で、私たち家族は、全く予想もできなかった国際的な大事件に巻き込まれることになります。
 その翌年、一九八三年の夏に、私は東部のノース・カロライナ大学に移り、長女もその大学に編入学して、首都のローリーという町に住んでいました。そこへ、夏休みを利用して、東京から妻と長男がやってきて、私たち親子四人は、久しぶりに家族水入らずの生活を送りました。
 いろいろとノース・カロライナやバージニアの各地を旅行したりして、楽しい一か月を過ごしましたが、妻と長男は、この夏休みを終えて帰国するときに、あの大韓航空〇〇七便に乗ってしまったのです。妻と長男は、九月一日未明、日本を目前にしたサハリンの海上に散らされました。
 私は、大学で教壇に立つこともできなくなり、教職を中断して長女と一緒に帰国してからは、寝たきりの病人のような状態になりました。
 起きていることだけでも苦しくて、私は昼も夜もただ眠り続けました。
 眠ってさえいれば、悲しみからは一時的にでも逃避することができます。だから、目を覚ますことを恐れました。
 目を覚まして過酷な現実に直面すると、悲しみよりも痛みが全身を突き抜けます。私はもうろうとした精神状態のなかでうつらうつらしながら、目を覚まして正気に戻ると、また慌てて眠ろうとしていました。
 その当時のことを思い出しますと、いまこうして、こころ穏やかに生きていることが不思議なような気がいたします。その頃は、妻や長男のことを話そうとしても、声がでなかったこともありました。
 のちに私は、『疑惑の航跡』(潮出版社)という本のなかで、この極限状態の自分を書くことになりますが、それをここでくり返すつもりはありません。
 ただ、こういう悲嘆の極限状態から、長い年月を経て、私は少しずつ、本当に少しずつ、生とは何か、死とは何かを、考え、学び、掴み始めていったのです。

 今度書いたこの本のタイトルは、『天国の家族との対話』としました。
 死んでこの世にいなくなった家族と、本当に対話ができるのかと思われる方がおられるかもしれません。というよりも、おそらく世間の大半の人々が、そんなことはあり得ないと思い込んでいるでしょう。
 しかし、その対話は可能です。
  迷信を退け、妄言に惑わされず、信憑性に欠けるものは慎重に排除しながら、ひたむきに真実を求めていけば、愛する家族と確かな対話をすることは、決して不可能ではありません。
 長い苦しみと迷いの年月を経て、私が辿ってきたこのような対話への道筋の一端も、どうか、この本の中から読み取っていただきたいと思います。
 第一部では、私が無知の闇のなかで悲嘆に暮れていた何年かを経て、霊界の家族が生き続けていることを確認するまでを、書いてみました。
 そして、第二部では、愛する家族との死別の悲しみに暮れている多くの遺族の方々からのメールとそれに対する私の応答をとりあげています。
 死別の苦しみを救えるのは、いのちの真実を知ることだけだと思いますが、人は死なない、愛する家族はいまも生き続けているという峻厳な真実を、これらのメールの交換で少しでもお伝えできれば、望外のしあわせです。

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