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武本昌三 現代文訳
 浅野和三郎 『新樹の通信』
http://www.takemoto-shozo.com/

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<巻末付録> 『和製スピリチュアリズム』について 須江克則
 
本PDFファイルは著作権を有する武本昌三氏の許可を得て霊界文庫(http://reikaibunko.com/)が作成し、
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翻訳者略歴

武 本 昌 三(たけもと・しょうぞう)

1930年大阪に生まれる。

東京外国語大学卒業後米国留学、オレゴン大学 (University of Oregon) 大学院修了。

室蘭工業大学助教授、小樽商科大学教授、文部省在外研究員、フルブライト上級研究員、オレゴン大学、アリゾナ大学、ノース・カロライナ大学、ロンドン大学各客員教授を経て跡見学園女子大学短期大学部教授。現在、同大学名誉教授。特定非営利活動(NPO)法人「大空の会」(子どもを亡くした親の会)理事。

専攻:英語学、比較文化論。

著書:『太平洋のかなたに』(榊原出版)、『英文解釈の研究と演習』(共著・篠崎書林)、『The Turning Point in Reading』(共編・文理)、『英語教育のなかの比較文化論』(鷹書房弓プレス)、『イギリス・比較文化の旅』(鷹書房弓プレス)、『アメリカ・光と影の旅』(文芸社)、『妻と子の生きた証に』(北都工芸社)、『疑惑の航跡』(潮出版社)、『大韓航空機事件の研究』(編著・三一書房)、『生と死の彼方に』(文芸社)、『天国からの手紙』(学研パブリッシング)など。

その他:「アメリカへの旅ー英語学徒・武本潔典の想い出ー」(福武書店「英語」1984年5月号)、「ノース・カロライナへの道」(福武書店「英語」1984年8月号)、「妻と子に捧げるレクイエム」(潮出版社「潮」1984年9月号)、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(岩波書店「世界」1985年10月号)、「アメリカ政府を告発する」(報道と評論「論点」1986年1月第5号)、「霧の中ではない大韓航空機事件の真相」(情報企画社「月刊イズム」1990年12月号)、「祈りへの道」(日本心霊科学協会「心霊研究」1992年1月号)、「真実の教えを求めて」International Institute for Spiritualism 「LIGHT WORKERS」2004年夏号(2004年6月)など。

  新樹の通信  「霊界通信集」A

 浅野和三郎『新樹の通信』の現代文訳を載せるにあたって

 浅野和三郎先生(1874-1937)は、英文学者として、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』等の翻訳をはじめ、多くの著作を残されて著名ですが、それだけではなく、それ以上に、大正から昭和の初期にかけて、日本の心霊研究の草分け的存在として、大きな足跡を残されました。

 東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍機関学校の英語教授をしていましたが、三男三郎氏の原因不明の熱病を契機にして心霊研究に傾倒するようになりました。その後、海軍機関学校を辞職して「心霊科学研究会」を創設し、1928年には、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議にに出席して、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演したりしています。

 この『新樹の通信』は、若くして急逝した次男・新樹氏から父へ、霊能者の母・多慶子女史により伝えられた珠玉の霊界通信で、昭和の初期に心霊科学研究会から出版されました。その復刻版は、現在も、潮文社から刊行されています。ただ、原文は80年前の古い文体でやや読みにくいと思われますので、この際私が現代文に訳してみることにしました。これから随時、その要点を、このホームページに載せていく予定です。

 この現代文訳の末尾には、原文である復刻版の該当ページと、他の現代文訳の「引用」ではないことを明らかにするために、あえて現代文訳者として私の名前もつけておきます。一人でも多くの方に、この貴重な霊界通信を読んでいただきたいというのが、私の願いであり現代文訳の趣旨であることを、ご理解いただければ有難く存じます。(2013.07.01)

追伸
 7月19日の「現代文訳者私感」のなかで触れておきましたように、この『新樹の通信』は、やはり全文を現代文訳するべきだと思うようになりました。霊界通信の内容がすべて極めて重大かつ貴重で、要点だけを部分的に取り上げるというのでは、あまりにも惜しいような気がするのです。
 そこで、「(三)通信の初期」を「1」としていたものを「5」にして、その前に、4つを挿入して、近日中に次のように並べ替えます。どうぞ、ご了承ください。  (2013.07.24)

 1. 『新樹の通信』 第一篇 序
 2.  新樹の生涯
 3. (一)通信の開始
 4. (二)果たして本人か?
 5. (三)通信の初期
 6. (四)幽界人の姿 その他 (その1)
 7. (四)幽界人の姿 その他 (その2)

         ***************

 1. 『新樹の通信』第一篇 序

 本編は新樹が彼の母を通じて送りつつある初期の通信の集成であります。そのなかで最も早いのは、彼の死後わずかに百日あまりが過ぎた昭和4年7月頃のもの、その最も遅いのも昭和5年2月頃、つまり彼の一周忌前後のものであります。それ以来今日までに現われたのも少なくありませんが、それらは漸次、機会をみて発表していくことにしましょう。
 私どもが新樹の通信を発表するについては、これに対して世間では、必ずしも賛同するものばかりでないことは十分に承知していますが、私どもとしては、しばらくは一切の毀誉褒貶に眼をつぶり、とにかく私どもに現われたこの活きた心霊事実をありのままに世間に発表して識者のご考慮に供することで満足していますので、もしもこれが導火線となって、少しでも日本国民の間に心霊への関心を促すことにもなれば、それこそ私どもにとっては望外の歓びなのであります。
 いよいよ本編の編集が終わった8月16日に、私は新樹を呼びだして、「お前もひとつそちらの世界からこの本の序文を書いて送れ」と命じました。新樹はこれを快諾し、二日後の8月18日に、彼の母の口を借りて送信してきたのが左記の挨拶であります。恐らくこの方が本書の本当の序文というべきものでしょう。

 (新樹の挨拶)
 このたび父から、僕がこれまでに送った通信の一部を一冊の書物にとりまとめて上梓するから、お前も何かひとつ序文を書くようにとのことで、未熟の僕には特にこれというよい考えも浮びませんが、ほんの申し訳に、少し所感を述べさせていただくことにいたします。
 僕が送った初期の通信をご覧の方は、ことによると僕を女々しい、愚痴っぽい男とお考えになるかもしれませんが、実際はそうでもないのです。僕はどちらかといえば、生来むしろ陽気な性格で、若者に許される正常な快楽の殆んどすべてを手当たり次第に探し求めていました。従って僕は、生前はただの一度も「死」の問題などは考えたことがありません。あんな陰気な恐ろしいものは、僕とはまったく関係のない、少なくとも遠い遠い未来の、夢か幻のようなもののように考えていたのです。
 そのような僕が、いつのまにか「死」の関門を通過してしまったのですから、まことに皮肉極まる話で、叔父から死を宣告されて初めてそれと気がついた時には、僕がいかに愕き、悲しみ、また口惜しがったかは、どうぞお察しください。その頃の僕の通信が、涙混じり、愚痴混じりのたいへんお恥ずかしいものであったのも、同情深い方々は多少は大目に見てくださるのではないかと思っています。
 しかしながら、現世の側から前途に死を望み見るのと、こちらの世界から振り返ってそれを回顧するのとでは、大分勝手が違います。何といってももう仕方がないのですから、僕のような者にも次第にあきらめがついてきまして、現世では使い得なかった精力の全部をひとつみっちり幽明交通の仕事に振り向け、父の手伝いをしてやろうという心願を起こしました。それが現在の僕にとって、活きて行くべき殆んど唯一の途なのです。もちろん僕の修行が足りないために、これぞという通信はまだとても送ることはできません。父から次々に出される問題の多くは、僕の力量に余るものばかりなので、そんな場合には、一心不乱に神に伺い、また守護霊に聞いたりして、どうにか大過なきを期しているような次第で、従って僕の通信といっても、内容は僕が中継者の役目をつとめているだけの霊界通信なのであります。ともかくも、こうした仕事に精根を打ちこんでいるお蔭で、近頃はこちらの世界の事情も少しずつわかりかけ、幽界生活もまんざらでなく考えられるようになってきました。
 僕の現在の不満はまだ現界が少しも見えないことで、時々はそれがじれったく感じられます。しかし神さまに伺ってみると、それは僕の地上生活に対する執着がまだすっかり除き切れていないためだそうで、この間なども、神さまから「お前はまだ後ろを振り向いてはならないぞ!こちらでお前の為すべきことは多い。すべての準備ができれば現界も自然と見えてくる………。少しも急ぐには及ばない」とお叱りをうけました。そこで僕も考えたのです。「なるほどそうだ。焦るのはよくないのだろう。これから先が際限なく永い生活なのだから、あまり焦らずに、いま与えられている仕事に対して最善をつくすことにしよう……。」
 だいたい僕はこんな状態で、かなり楽な気持ちで幽界に生きております。死後の生活――このことが僕の通信で幾分でも皆さまにおわかりになれば、皆さまの死に対する不安も薄らぎ、同時に皆さまの心の視野も限りなく拡大していくでしょう。これからの僕はなお一層の修行を積んで、より充実した通信を送り、皆さまの期待に背かぬように努力する覚悟であります。
 今回はこれで・・・・・・。

   昭和6年8月18日                   編者 誌す

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.1-5 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 この和三郎先生の「序文」は、よくわかります。このような本に「必ずしも賛同するものばかりでない」世間の風潮のなかで、あえて出版を決意された先生のお気持ちも、よくわかります。本の体裁としては、一般的に本にはみんなこのような序文があって、その点では別に珍しくはないかもしれません。しかし驚嘆させられるのは、和三郎先生がこの本の序文を、あの世に居る新樹氏にも書かせていることです。新樹氏がお父上の指示を「快諾して」このように貴重な序文を書き送ってきたことです。これは、現代の奇跡というほかはないでしょう。

 霊界からは、この世の私たちのことは「丸見え」であるということは、私も理解していました。しかし、それも、現世に対する執着がなくなり、霊界での「準備が整うまで」はこの世は見えてこないことを新樹氏は教えてくれています。「これからの僕はなお一層の修行を積んで、より充実した通信を送り、皆さまの期待に背かぬように努力する覚悟であります」という新樹氏のことばには、多大の恩恵を受けている読者の一人としても、こころからの感謝を申し上げずにはおられません。(2013.07.24)

  2.新樹の生涯

 新樹は日露戦争が起こった明冶37年6月10日に、私たち夫婦の間の二男として横須賀軍港で生まれました。彼は稀にみる白哲肥大の小児で、ずっと健康に育ち、少し大きくなってからは、なかなかの腕白小僧となりました。彼が五、六歳の頃、新調のナイフの切味を試すつもりで、新しい箪笥の角を削り取ったことは家族の笑話として、後々まで語り伝えられました。
 小学教育は横須賀市の豊島小学校で受けましたが、いつも首席で、どの学課も殆ど満遍なく出来ましたが、特に目立っていたのは絵画で、ちょっと器用な画才をみせました。
 その頃私は血気盛りで、土曜から日曜にかけてはよく遠足にでかけ、また夏には欠かさず水泳を試みましたが、新樹はよくその相伴をつとめました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で、私たちの行かなかったところは殆どないといってよいくらいです。また海では、新樹は私の腰に紐でくくりつけた浮き子につかまって、しばしば猿島の近くまで遠泳をしました。
 新樹の中学教育は全部、福知山中学で受けましたが、ここでも成績は優等で、ずっと特待生を続けました。在学中、家から通学したのはほんの最初数か月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に入っていました。そして、卒業とともに長崎の高商に入学し、良い成績で同校三年の課程を終えました。その時は数え年で22歳になっていました。
 この間に彼の身長はだんだん延びて、5尺を越え、5寸、6寸、7寸となっていきました。同時にその趣味や傾向も次第に固まっていったようです。私や妻にとってむしろ意外であったのは、彼の幼時の腕白性がだんだん薄らぎ、むしろ社交的要素といったようなものが多く加わってきたことで、彼の趣味も、音楽、絵画等が第一に数えられました。ハーモニカではたしか、長崎高商音楽部の部員だったはずです。それに、彼の性情はどこまでも円満で、活発な運動競技、たとえばボート、ベースボール、スケート、テニス、山登り等にもかなり力をいれていたようです。
 大正14年に学校を卒業した彼は、すぐに古河電気工業株式会社に入り、東京の本社に勤務することになりました。ちょうどその頃、私たち家族も鶴見に移り住むことになったので、まもなく彼は鶴見に来て住むようになり、大連支店に転勤を命じられるまで、久しぶりに約一年間、父母弟妹と家庭団欒の楽しみを味わいました。若くして死んだ彼にとっては、これがせめてもの、この世の生活の楽しい思い出の種であったと思われます。
 彼は昭和2年2月の末に大連に赴任し、それ以来、支店長や同僚にもたいへん好かれて、熱心に社務に精励していました。その翌年の昭和3年7月、私は渡欧の途中大連に立寄り、7月14日から18日までの5日間、もっぱら彼を案内役にして、見物に、訪問に、また座談や講演に多忙な時日を過ごしましたが、特に17日の旅順見物、二〇三高地への登頂、夜に入って老虎灘の千勝館に戻ってきての水入らずの会食の状況などは、今も私の心の奥にはっきりと刻まれております。
 当時の新樹には、まったく不健康な様子はありませんでした。ただ、14日に私がバイカル丸から下船して、一年半ぶりに埠頭でわが子に逢った時の第一印象は、彼がいつのまにかずっと大人びていたということでした。それから私は、無事に欧米の心霊研究の旅を終え、同年の暮れに鶴見に戻ってきて、正月をすませ、少し寛ぎかけていた2月の27日に、突然、新樹が黄疸にかかり、満鉄病院に入院したという電報を受け取りました。三度ほど電報で連絡しあっているうちに、その翌日の2月28日の夕刻には、もう彼の死を伝える電報が届いたのです。その時は、どうすることも出来ずに、殆んど何も考える余裕さえありませんでした。
 新樹の遺した日記帳を開いてみても、彼が病気に対し、また死に対して、全く不用意であった様子がよくうかがわれます。2月12日のところに、「昨日から風邪気味で今朝は11時に出社する。夜は読書」とあるのが、彼の健康異状を物語る唯一の手がかりです。もっとも日記が2月1日で終わり、それからはすべて空白になっているところをみると、その頃はペンを執るのもかなり大儀であったのでしょう。それでいて同月17日、つまり彼が死ぬたった11日前というのに、彼は同僚の2、3人と星ヶ浦に遊び、その際に同所で撮った写真には、例の如く両手をズボンのポケットに突込んで、大口を開いてカラカラと笑いこけています。
 聞けば、26日の朝まで殆ど何の異状もなかった病状が、その日の昼頃、急に進んで脳を冒し、それっきり十分に意識を回復しなかったのだということです。満鉄病院でもやはり昏睡状態が続き、そのまま死の彼岸へ旅立ったということで、正気で死に直面する苦痛を免れたことは、本人にとっていくらかは幸せであったかもしれません。とにかく、あまりにもあっけない死に方でした。
 私の手で持ち帰った彼の遺骨は、鶴見の総持寺の境内に埋められ、一片の墓標がその所在を示しています。しかし、そんなものは殆んど無意味に近い物質的紀念物に過ぎないでしょう。彼の現世に遺すべき真正の記念物が、彼岸の彼が心を込めて送りつつある、この続きものの通信であることは申すまでもありません。

       昭和6年8月20日                  編者誌す

               浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
                 潮文社、2010年、pp.6-8 (現代文訳 武本昌三)

  現代文訳者私感

 学校では常に成績優秀であった新樹氏が、長崎高等商業学校(現在の長崎大学)の卒業生であったことには感慨を覚えます。戦前の日本では、長崎高商は官立の高等商業学校としてして著名で、東京高商(現一橋大学)、神戸高商(現神戸大学)、小樽高商(現小樽商科大学)などと肩を並べていました。私は小樽商科大学で長年教鞭をとっていましたから、長崎高商の名はよく知っていましたし、おそらく、新樹氏も、小樽高商の名はよくご存知であったと思われます。

 スポーツ好きで明るく、誰からも好かれていた新樹氏が、その年(昭和4年)の2月26日の朝まで殆どなんの異常もなかったのに、その日の昼頃から急に病状が悪化して、満鉄病院でこん睡状態のまま、2月28日にはもう亡くなられたというのは、あまりにも急で、読み返していてもこころが痛みます。私が妻や子を一度に失った時にも、あまりにも大きなショックで、和三郎先生のように、殆んど何も考える余裕はありませんでした。

 和三郎先生が、新樹氏の遺骨を鶴見の総持寺の墓地に埋葬された際には、先生がご自分で墓標の文字を書かれたと、昨年墓参させていただいた折にご家族からお伺いしました。先生は、新樹氏の現世に遺すべき真正の記念物は、この霊界通信であると書いておられますが、私は先生のお気持ちを受け継いで、この新樹氏の通信を一人でも多くの方々に読んでいただけるように、こころを込めて、現代文訳に努めていきたいと思っています。    (2013.08.02)

  3. (一) 通信の開始

 新樹が満鉄病院で亡くなったのは、昭和4年2月28日午後6時すぎでした。私はその訃報に接するとすぐに旅支度をして、翌日の3月1日の朝、特急で大連に向かい、同4日大連に到着、5日告別式火葬、6日骨上げと、このような場合に行なわれる通常の行事を、半ば夢見心地で忙しく辿っていました。そして、3月12日の夕暮れには、彼の遺骨を携えてさびしく鶴見の自宅に帰り着きました。
 私にとって甚だ意外だったのは新樹の霊魂が、早くもその一日前(3月11日)に中西霊媒を通じて、不充分ながらもすでに通信を始めていたことでした。
 はじめは霊媒にかかってきた新樹は、自分の死の自覚をもっていなかったそうで、あたかも満鉄病院の病室にいるかのように、夢中で頭部や腹部の苦痛を訴えていたといいます。その時、立会人の一人であった彼の叔父(正恭中将)は、例の軍人気質で、短刀直入的に彼がすでに肉体を棄てた霊魂にすぎないことをきっぱり言い渡し、一時も早く彼の自覚と奮起を求めたそうです。新樹は、

 「えっ!僕、もう死・・・・・死んだ……僕‥…残……念……だ………。」
 そう絶叫しながら、その場に泣き崩れたといいます。

 新樹の霊魂は、その後数回、中西霊媒を通じて現われ、また一度ちょっと、粕川女史にも感應したことがありました。それらによって彼の希望は次第に明らかになりました。それを要約すると、つぎのようになります。――

 (1)約百か日を過ぎたら、母の体に憑って通信を開始したい。
 (2)若くして死んだ埋合わせに、せめて幽界の状況を報告し、父の仕事を助けたい。

 私も妻も、百か日が過ぎるのを待ち構えてその準備を急ぎましたが、大体においてそれは予定していた通りに事実となって現われました。私の妻は、十数年前から霊視能力を発揮していましたが、この度の新樹の死を一転機として霊言能力をも併せて発揮するようになり、不完全ながら、愛児の通信機関としての心苦しい任務を引き受けることになりました。
 最初の頃は.新樹自身もまだ充分に心の落ち着きができておらず、また彼の母も感傷的気分になりがちでしたので、ともすると通信が乱れがちでしたが、月日の経つうちに次第にまとまりのよい形になっていきました。
 8月12日に第20回目の通信を送ってきた時などは、彼は自分が死んだ当時のことを追憶して、多少しんみりとした感想を述べるだけのこころの余裕ができていました。――

 「僕、叔父さんから、新、お前はもう死んでしまったのだ、と言い聞かされた時には、口惜しいやら、悲しいやら、本当にたまらない気がしました。お母さんから、あんなに苦労して育てていただいたのに、それがつまらなく一会社のただの平社員で死んでしまう・・・・・。僕はそれが残念で残念でたまらなかった。しかし僕は、次ぎの瞬間にこう決心しました。現世ではろくな仕事ができなかった代りに、せめて幽界からしっかりした通信を送ってお父さんを助けよう。それが僕としては何よりも損失を取り戻すことにもなり、一番意義のある仕事であろう。それには是非お母さんの体を借りなければならない。僕は最初から、ほかの人ではいやだと思っていた・・・・・。」

 簡単にいえば、新樹の通信はこんな順序で開始され、それが現在に及んでいるのであります。この通信がいつまで続くかは、神ならぬ身では予想することもできませんが、おそらく私と妻がこの世に生きている間は、全く途切れてしまうことはないでしょう。なぜなら、私にとっては心霊事実の調査はほとんど私の命そのものであり、また妻にとっては、あの世の愛児の消息は何物にも代え難い心の糧であるからです・・・・・・。
 新樹との通信中、霊媒である妻の霊眼には、ありありとあの世の愛児の起居動作やそのまわりの環境が映ります。また通信中の彼女の言語や態度は、ある程度、新樹の生前の面影を彷彿としてよみがえらせてくれます。こういうことは当事者にのみわかることで、ことばでは言い表すことができません。ここでお伝えできないことをどうぞご了承ください。

      浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
         潮文社、2010年、pp.1-3 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 満鉄病院で急死した新樹氏の遺骨を抱いて「さびしく」鶴見の自宅に帰ってこられた浅野和三郎先生の、その時の胸中は察するに余りあります。死を自覚するとかしないとかの話はよく聞きますが、幽界からの新樹氏の最初の悲痛な叫びも、察するに余りあります。さぞ、残念であったことでしょう。

 しかし、それにもかかわらず、新樹氏が「せめて幽界からしっかりした通信を送ってお父さんを助けよう」との決意を述べられていることには、敬意と感謝の念を抑えることができません。お蔭様で、私のような者を含めて、多くの読者が多大の恩恵を受け、こころを慰められてきました。和三郎先生の「私にとっては心霊事実の調査はほとんど私の命そのもの」というおことばも、これを読む者の胸の奥深くに染みとおっていきます。(2013.08.09)

   4. (二)果して本人か?

 さて、これから新樹の通信を発表することになりますが、この仕事についてすべての責任がある私としては、通信者が果して本人に相違ないかどうかをまず最初に読者にお伝えするのが順序であると考えます。この点に関して充分の考慮が払われていなければ、結局は新樹の通信といってもそれは名ばかりのもので、心霊事実としては、まったくとるに足らないものになってしまいます。非才とはいえ私も心霊研究者の末席に連なる者として、この点については常に、できる限りの注意を払っているのであります。
 すでに述べたとおり、真っ先に新樹の霊を呼び出したのは彼の叔父で、そしてこの目的に使われたのは中西霊媒でした。私は多大の興味を以て、この実験に対する常事者の感想を聞いてみました。するとその答えはこうでした。――

 「あれなら先ず申し分がないと思う。本人のことば、態度、気分等の約六割ぐらいは彷彿として現われていた。自分は前後ただ二回しか呼び出していないが、もしも今後、五度、十度と回数を重ねていったら、きっと本人の個性がもっとはっきり現われてくるに違いないと思う・・・・・・。」

 比較的公平な立場にある、そして霊媒現象に対して相当な懐疑的態度をもっている人物のことばとして、これはある程度、敬意を払うべき価値はあると思われます。
 私自身が審判者となって、中西女史を通じて初めて新樹を呼び出したのは、それから約一か月経った4月の9日でした。その時は幽明を隔てて最初の挨拶を交わしただけで、特にお伝えできるような内容はありませんでしたが、ただ全体からみて、なるほど生前の新樹そっくりだという感じを私に与えたのは事実でした。
 しかし、研究者の立場からみれば、それは確証的なものではありませんでした。私は焦りました。「なんとかして確実な証拠を早くみつけたいものだ。それにはただ一人の霊媒にかけるだけではいけない。少なくとも二、三人の霊媒にかけて対照的に真偽を確かめるよりほかに道はない・・・・・・。」
 そうするうちに新樹は一度粕川女史にかかり、続いて7月の中旬から彼の母にかかって、間断なく通信を送ってくるようになりました。「これで道具立てはようやく揃いはじめた。そのうち何とかなるだろう・・・・・」――そう考えて私はしきりに機会を待ちました。
 月が8月に入って、ようやくその狙っていた機会がやってきました。同月10日午前のことですが、新樹は母の体にかかり、約一時間にわたって、死後の体験談を伝えてきました。それが終わりに近づいた時、私はふと思いついて、彼に向かって一つの宿題を出したのです。――

 「幽界にも伊勢神宮は必ず存在するはずだ。次回にはひとつ伊勢神宮を参拝してその感想を報告してもらいたいのだが………。」
 「承知しました、できたらやってみましょう・・・・・・。」

 するとその翌日、中西女史が上京してきました。私はこの絶好の機会を捉え、すぐに新樹の霊魂を同女史の体に呼んで、前日に彼の母を通じて出しておいた宿題の回答を求めました。「昨日鶴見で一つ宿題を出しておいたはずだが………。」
 そう言うと新樹はすぐに中西霊媒の口を使って答えました。――

 「ああ、あの伊勢神宮参拝ですか………。僕は早速参拝してきましたよ。僕は生前に一度も伊勢神宮参拝をしたことがありませんでしたから、地上の伊勢神宮と幽界の伊勢神宮とを比較してお話しすることはできませんが、どうもこちらの様子は大分勝手が違うように思いますね。絵で見ると地上の伊勢神宮にはいろいろな建物があるようですが、こちらの伊勢神宮は、森々とした大木の茂みのなかに、ごく質素な白木のお宮がただ一つ建っているだけでした………。」

 彼はこれに附け加えてその際の詳しい話をしてくれました。こまかい話は他の機会に紹介することにしますが、ここで見過ごしてならないのは、彼の母を通じて出された宿題に対して、彼がその翌日中西霊媒を通じて解答を示したことでした。
 「先ずこれで一つの有力な手懸りが掴めた」と私は喜びました。「思想伝達説を持ち出して強いて難癖をつければつけられないこともないが、それは死後個性の存続説を否定しようとつとめる学者たちの頭脳からひねり出された一つの仮定説にすぎない。私は難癖をつけるための難癖屋にはならないようにしよう。多くの識者の中には、おそらく私の態度に賛同される方もおられるであろう………。」
 翌日12日の午前、私は鶴見の自宅で、今度は妻を通じて新樹を呼び出しました。

 「昨日中西さんに懸ってきたのはお前に間違いないか?」
 「僕です……。あの人は大変かかり易い霊媒ですね、こちらの考えが非常に速く通じますね。」
 「もう一度お前のお母さんの体を使って、伊勢神宮参拝の話をしてくれないか、少しは模様が違うかもしれない。」
 「それは少しは違いますよ。こうした仕事には霊媒の個性の匂いといったようなものが多少は付け加えられ、そのために自然に自分の考えとぴったり合わないようなところも出てきます。お母さんの体はまだあまり使い易くはありませんが、やはりこの方が僕の考えとしっくり合っているようです。もっとも、僕の考えていることで細かいところは、途中でよく立ち消えになりますがね……。」

 こんなことを言いながら彼は伊勢神宮参拝の話を繰り返したのですが、彼の母を通じての参拝の話と中西霊媒と通じての参拝の話との間には、長さや細かさの差があるだけで、その内容はまったく同じでした。
 彼が一度粕川女史に懸ろうとしたことも事実のようでした。8月4日午前、彼は母の体を通じて、問わず語りにつぎのようなことを話しました。――

 「僕は一度あのご婦人……粕川さんという方に懸ろうとしました。折角お父さんがそう言われるものですから……。けれどもあの方の守護霊が体を貸すことを嫌がっているので、僕は使いにくくて仕方がなかった………。僕、たった一度しかあの人にはかかりませんでした………。」

 新樹と交信を始めた当初は、手懸りになったのは先ずこんな程度のものでしたが、幸いにもその後、東茂世女史の霊媒能力が次第に発達するにつれて、確実な証拠や材料がつぎつぎに積み重ねられていきましたので、現在においては、果して本人に相違ないかどうかといったような疑念を挟む余地はもはや全くなくなりました。
 東女史の愛児・相凞さんと新樹は、近頃あちらで大変親しく交遊しており、一方に通じたことはすぐに他方にも通じます。そして幽界での二人の生活状態は双方の母たちの霊眼に映り、また双方の母たちの口を通じてくわしく伝えられます。ですから、たとえ地上の人間の存在が疑われるようなことがあっても、幽界の子供たちの存在は到底疑うことができないのであります。
 こうした次第で、私も妻もこれを新樹からの通信として発表することには少しの疑問も感じませんが、ただその通信内容の価値については、これをあまりに過大評価されないことをくれぐれも切望してやみません。発信者は幽界のほんの新参者ですし、受信者は心霊通信のほんの未熟者で、到底満足な大通信ができるはずはありません。せいぜいあの世とこの世との通信のひとつの見本とみなしていただければ結構で、真の新樹の通信は、これを今後五年十年の後に期待していただきたいのであります。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
         潮文社、2010年、pp.4-9 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは浅野和三郎先生が、通信相手が間違いなくご次男の新樹氏であることを確認するために、伊勢神宮への参拝の宿題を出し、その答えを中西女史と多慶子夫人を通じて別々に受け取ることで検証しておられます。さらには、東女史の愛児・相凞さんと新樹氏との親しい交友をお二人の母親同士が霊視して確認しておられることには、通信の初期の段階であるだけに、その霊能力の高さに畏敬の念を抑えることができません。それでいて和三郎先生が、「満足な大通信ができるはずはありません」と謙遜しておられるのには頭が下がります。

 和三郎先生のご長女で、新樹氏の妹さんであられる秋山美智子様がご健在で、いま横浜市に住んでおられます。昨年1月にお会いして以来、文通が続いていますが、私の『天国からの手紙』なども読んでくださいました。その美智子様が、「兄と潔典さんが会ってくれればいいですね」と言ってくださったことをたいへん有り難く思い出しています。それは夢のような話かもしれませんが、霊界では案外簡単に実現しているのではないかと思ったりもしています。しかし、いまの私には、それを確かめるすべはありません。(2013.08.16)

    ― 以上、1~4 を挿入して、次回は 8 へ移ります ―  

  5.(三)通信の初期

 すでに申上げたとおり、新樹が彼の母を通じてともかくも通信を開始したのは、昭和4年7月の半ば頃でしたが、通信とはほんの名ばかりで、わずかに簡単な数語をとぎれとぎれに受け取るだけに過ぎませんでした。
 当時の私の手帳から、見本として少しばかり抜き出してみます――

 問「お前はいま何か着物を着ているか?」
 答「着ています………白い着物………」
 問「飲食はしているか?」
 答「何も食べていません・・・・・・」
 問「睡眠は?」
 答「睡眠もとっていません・・・・・」
 問「月日の観念はあるか?」
 答「ありません、ちっとも・・・・・・」

 これが7月17日の問答筆記で、その末尾につぎのような私の注釈がついています。

 「この日の通信の模様はよほど楽になった。私が『昨年の今日は、お前と一緒に大連郊外の老虎灘へ出掛けて行き、夜まで楽しく遊び暮らした日だ』と言うと、彼は当時を追憶していたようで、しきりに涙を流した………」

 7月25日の第8回目の通信の記録を見ると、そこではいくらかの進境がみられます。左にその全部を掲げてみます。

 問「私たちがここにこうして座り、精神統一をしてお前をよぼうとしている時には、それがどんな具合にお前のほうに通じるのか? 一つお前の実感を聞かせてくれないか・・・・・」
 答「ちょっと、何かその、ふるえるように感じます。こまかい波のようなものが、プルプルプルと伝わってきて、それが僕のほうに感じるのです。」
 問「私の述べる言葉がお前に聞えるのとは違うのか?」
 答「言葉が聞えるのとは違います……感じるのです……。もつとも、お父さんのほうで、はっきり言葉に出してくださったほうが、よくこちらに感じます。僕はまだ慣れないから……」
 問「私に限らず.誰かが心に思えば.それがお前のほうに感じられるのか?」
 答「感じます………いつも波みたいに響いてきます。それは眼に見えるとか、耳に聞えるとかいったような、人間の五感の働きとは違って、何もかもみな一緒に伝わってくるのです。現に、お母さんはしょっちゅう僕のことを想い出してくださるので、お母さんの姿も、気持ちも、一切が僕に感じてきてしようがない・・・・・・」
 問「生前の記憶はそっくりそのまま残っているか?」
 答「記憶しているのもあれば、また忘れたようになっているのもなかなか多いです。必要のないことは、ちょうど雲がかかつたように、奥のほうに埋もれてしまっていますよ………」
 問「満鉄病院へ入院してからのことを少しは覚えているか?」
 答「入院中のこと、それからどうして死んだかというようなことは全然覚えていません。火葬や告別式などもさっぱりわかりませんでした・・・・・・」
 問「お前が臨終後まもなく、火の玉がお前のお母さんに見えたが、あれはいったい誰が行ったのか?」
 答「僕自身は何も知りません………。いま守護霊さんに伺ったら、全部守護霊さんがやってくださったのだそうです………」
 問「いつお前は自分の死を自覚したのか?」
 答「叔父さんに呼び起こされた時です………」
 問「あのまま放置しておいてもいつか気がついていただろうか?」
 答「さあ………(しばらく過ぎて)只今守護霊さんに聞いたら、それは本人の信仰次第で、真の信仰のある者は早く覚めるそうです。信仰のないものは容易に覚めるものではないといわれます。」

 これが当日の問答の全部です。例によって、その末尾には私の注釈がつぎのようについています。――

 「右の問答後、妻に訊くと、先ほど細かい波の話が出た時に、彼女の霊眼には、非常に繊細な、きれいな漣がはっきり見えたという。これがいわゆる思想の波、エーテル波動とでもいうものか?」

 初期の通信の見本の紹介はこの辺で打ち切り、これからは多少分類的に手帳からの抄録を行って、少しでも死後の世界の実相を知りたいと思っておられる方々の資料に供したいと存じます。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.9-12  (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者 私感

 まず何よりも、昭和4年(1929年)の通信の初期に、すでにこれだけの対話が実現していたことに驚かされます。心霊研究者としての浅野和三郎先生、優れた霊能者であられた多慶子夫人、それに大連の赴任地で25歳で急死された次男の新樹氏の3人の強い家族愛が高度の霊的才能と結びついて為し得た稀有の結果といえるでしょう。昭和4年7月17日の和三郎先生の注釈で、「私が『昨年の今日は、お前と一緒に大連郊外の老虎灘へ出掛けて行き、夜まで楽しく遊び暮らした日だ』と言うと、彼は当時を追憶していたようで、しきりに涙を流した………」とあるのには、私は何度読んでも、涙を禁じ得ません。

 霊界にいる人を念じながら対話を試みる時、こちらのことばはどのようにして霊界の相手に通じるのか、私も長い間、霊界通信に関わっていながら、自分自身の切実な問題として深い関心を持ち続けてきました。極めて貴重なこのような情報についても、ここでは霊界から、新樹氏が自分の例を明快に述べておられます。読者の一人としても、ただ、「有難うございます」とこころからのお礼を申し上げるほかはありません。(2013.07.05)

  6.(四)幽界人の姿その他 (その1)

 幽界の居住者と交信をする場合に、誰でも先ず聞きたがるのは、彼等の生活状態、例えばその姿やら衣食住に関する事柄でありましょう。私の質問も決して例外ではありませんでした。
 手帳を開いてみると、私が初めて亡き新樹に向かって、彼の幽界での姿について質問をしたのは7月26日、第9回目の招霊を行った時でした。

 問「いまお前は以前の通り、自分の体があるように感ずるか?」

 すると新樹は、考え考え、次のように答えました。――

 答「自分というものがあるようには感じますが、しかし地上に居た時のように、手だの、足だのがあるようには感じません………。といっても、ただ何もないのではない。何かがあるようには感じます。そして造ろうと思えばいつでも自分の姿を造れます………。」

 この答えはひとかたならず私を考えさせました。それまで欧米に知られていた幽界通信によれば、彼岸の居住者の全部は、生前そっくりの姿、或いはそれをやや理想化し、美化したような姿を固定的に持っているように書いてあります。これは霊魂問題に深く思いを寄せている者が長年疑問に感じてきた点で、これが果たして事実のすべてであろうか、という疑いが常に胸の奥の奥にあったのであります。しかし、多くの幽界通信の所説を無下に排斥することもまた乱暴な仕業でありますので、やむなく、しばらくこれに関して最後の結論を下すことを避けていたわけですが、今この新樹の通信に接し、私は何やら一筋の光明に接したような気がしたのでした。

 「これは面白い」と私は独語しました。「幽界居住者の姿はたしかに造りつけのものではないらしい。それにはたしかに動と静、仮相と実相との両面があるらしい………。」

 殆どこれと前後して、私は、スコット女史の体を通じて現はれた『ステッドの通信』を読みましたが、その中にほぼ同様の意味のことが書いてあったので、ますますこの問題に興味を覚え、この日の質問をきっかけに幾度かこれに関して新樹と問答を重ねました。新樹もまた興味が湧いてきたとみえ、自分の力量の及ぶ限り、また自分でわからない時には母の守護霊その他の援助を借りて、かなり具体的な説明を試みました。8月31日の朝、私と新樹との間で行われた問答はその見本の一つであります。

 問「幽界人の姿に動と静の二通りあるとして、それならその静的状態の時には全く姿はないのか? それとも何等かの形態をもっているのか?」
 答「それはもっていますよ。僕たちのふだんの姿は紫っぽい、軽そうな、ふわふわした毬みたいなものです。あまり厚みはありませんが、しかし薄っぺらでもない………。」
 問「その紫っぽい色は、すべての幽体に共通する色なのか?」
 答「みな紫っぽい色がついていますよ。しかし浄化するにつれて、その色がだんだん薄色になるらしく、現にお母さんの守護霊さんの姿などを見てみると、殆んど白いです。ちょっと紫っぽい痕跡があるといえばありますが、もう九分通り白いです……。」
 問「その毯みたいな姿が、観念の動き方一つで生前そつくりの姿に早変わりするというのだね。妙だな………。」
 答「まあ、ちょっと譬えていうと、速成の植物の種子のようなものでしょう。その種子からぱっと完全な姿が出来上るのです………。」
 問「その幽体も、肉体同様、やがて放棄される時が来るのだろうか?」
 答「守護霊さんに聞いたら、上の界へ進む時はそれを棄てるのだそうです。――しかし、必要があれば、その後でも幽体を造ることは造作もないそうで………。」
 問「幽界以上の界の居住者の形態はわからないだろうか?」
 答「わからんこともないでしょう。僕には沢山、指導者だの顧問だのがついていて、なんでも教えてもらえますから……。お父さんは一段上の界を霊界と呼んでおられるようですが、只今僕の守護霊さんに訊いてみましたら、霊界の居住者の姿も大体幽界のそれと同じで、ただその色が白く光った湯気の塊りみたいだといいます。――こんなことをただ言葉で説明してもよくお判りになれないでしょうから、お母さんの霊眼に一つ幽体と霊体との実物をお目にかけましょうか?」

 私が、是非そうしてくれと頼むと、まもなく彼の母の閉じた眼底に、極めてくっきりと両方の姿が映し出されたのでした。後で透一から覚めて物語るところによると、どちらもその形状は毬またはクラゲのようで、ただ幽体には紫がかった薄色がついており、そしてどちらも生気躍動といったふうに、全体にこまかい、迅い、振動が満ち満ちていたといいます。

  浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.13-16 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 死んで霊界へ行ったときには私たちはどのような姿になるのか。ここでは、新樹氏の幽界の段階での姿が明確に述べられていて、実に興味深い内容になっています。いろいろと本などに書かれてはいても、幽界での姿などというのはやはり理解が容易ではありませんでした。それが、新樹氏が自分の姿を中心に具体的に述べておられるだけに、そのことばには極めて説得力があるといわなければなりません。

 新樹氏が「僕には沢山、指導者だの顧問だのがついていて、なんでも教えてもらえますから」と言っておられるのには、私たちも元気づけられます。死んだあとはまず幽界へ行き、やがて霊界へ移っていくわけですが、その幽体と霊体との違いを、多慶子夫人の霊眼に写して見せているのも、通常では想像すらできない驚嘆すべき状況と思われます。
(2013.07.12)

  7. (四)幽界人の姿その他 (その2)

 この種の問答はまだ数多くありますが、いたずらに重複することを避け、ただ比較的まとまりのよい、第46回目(昭和4年12月29日午後)の問答ですべてを代表させることにいたします。
 この日は昭和4年度の最終の招霊になると思いましたので、多少の操返しを厭わず、お浚いのようなものにしたのでした。――

 問「多少前にも尋ねたことがあるのが混じるだろうが、念のためにもう一度質問に答えてもらいたい。――お前が叔父さんに呼ばれて初めて死を自覚した時には自分の体のことを考えてみたか?」
 答「そうですね・・・・・。あの時、僕は真っ先に自分の体はと思ったようです。するとその瞬間に体ができたように感じました。触ってみてもやはり生前そっくりの体で、特にその感じが生前と違うようなことはありませんでした。要するに、自分の体だと思えばいつでも体ができます。若い時の姿になろうと思えば、自由にその姿にもなれます。しかし僕にはどうしても老人の姿にはなれません。自分が死んだ時の姿までにしかなれないのです。」
 問「その姿はいつまでも持続しているものかな?」
 答「自分が持続させようと考えている間は持続します。要するに持続するかしないかはこちらの意思次第のようです。また、僕が絵を描こうとしたり、水泳でもしようとしたりすると、その瞬間に体ができ上がります。つまり外部に向かって働きかけるような時には体ができるもののように思われます。――現に、いま僕がこうしてお父さんと通信している時には、ちゃんと姿ができています・・・・・・。」
 問「最初はお前が裸体の姿の時もあったようだが・・・・・・。」
 答「ありました。ごく最初に気がついた時には裸体のように感じました。これは裸体だな、と思っていると、そのつぎの瞬間にはもう白衣を着ていました。僕は白衣なんかいやですから、その後は一度も着ません。くつろいだ時には普通の和服、訪問でもする時には洋服――これが僕の近頃の服装です。」
 問「お前の住んでいる家は?」
 答「なんでも最初、衣服の次ぎに僕が考えたのは家のことでしたよ。元来僕は洋館の方が好きですから、こちらでも洋館であってくれればいいと思いました。するとその瞬間に自分白身のいる部屋が洋風のものであることに気づきました。今でも家のことを思えば、いつも同じ洋風の建物が現われます。僕は建築にはあまり趣味はもっていませんから。もちろん立派な洋館ではありません。ちょうど僕の趣味生活にふさわしい、バラック建ての、極めてあっさりしたものです。」
 問「どんな内容か、もう少し詳しく説明してくれないか?」
 答「東京あたりの郊外などによく見受けるような平屋建てで、部屋は三室ほどに仕切ってあります。書斎を一番大きくとり、僕はいつもそこにいます。他の部屋はあってもなくてもかまわない。ほんのつけたしです。」
 問「家具類は?」
 答「ストーブも、ベッドも、また台所用具のようなものも一つもありません。人間の住宅と違って至極あっさりしたものです。僕の書斎には、自分の使用するテーブルと椅子が一脚ずつ置かれているだけです。書棚ですか……そんなものはありませんよ。こんな書物を読みたいと思えば、その書物はいつでもちゃんと備わります。絵の道具なども平生から準備しておくというようなことは全然ありません。」
 問「お前の描いた絵などは?」
 答「僕がこちらへ来て描いた絵の中で、傑作と思った一枚だけが保存され、現に僕の部屋に懸けてあります。装飾品はただそれきりです。花なども、花が欲しいと思うと、花瓶まで添えて、いつのまにか備わります。」
 問「いまこうして通信している時に、お前はどんな衣服を着て居るのか?」
 答「黒っぽい和服を着ています。袴ははいていません。まず気楽に椅子に腰をかけて、お父さんと談話を交えている気持ですね………。」
 問「庭園などもついているのかい?」
 答「ついていますよ。庭は割合に広々ととり、一面の芝生にしてあります。これでも自分のものだと思いますから、敷地の境界を生垣にしてあります。だいたい僕ははでなことが嫌いですから、家屋の外回りなどもねずみ色がかった、地味な色で塗ってあります。」
 問「いや今日は、話が大へん要領を得ているので、お前の生活状態が髣髴としてわかったように思う。――しかし、私との通信を中止すると、お前はいったいどうなるのか?」
 答「通信がすんでしまえば、僕の姿も、家も、庭も、何もかも一時に消えてしまって、いつものふわふわした塊り一つになります。その時は自分が今どこにいるというような観念も消えてしまいます。」
 問「自我意識はどうなるか?」
 答「意識がはっきりしている時もあれば、また眠ったような時もあり、だいたい生前と同じです。しかし、これはおそらく現在の僕の修行が足りないからで、だんだんと覚めて活動している時ばかりになるでしょう。現に、近頃の僕は、最初とは違って、それほど眠ったような時はありません。そのことは自分でもよくわかります。」
 問「お前の家にはまだ一人も来訪者はないのか?」
 答「一人もありませんね・・・・・。幽界へ来ている僕の知人の中にはまだ自覚している者がいないのかもしれませんね………。」
 問「そんなことでは寂しくてしようがあるまい。そのうちひとつ、お前のお母さんの守護霊にでも頼んで訪問してもらおうかな・・・・・・。」
 答「お父さん、そんなことができますか………。」
 問「それはきっとできる………できなければならないはずだ。お前たちの世界は、大体において想念の世界だ。ポカンとしていれば何もできないだろうが、誠心誠意で思念すれば、きっと何でもできるに違いない・・・・・。」
 答「そうでしょうかね。とにかくお父さん、これは宿題にしておいてください。僕はやってみたい気がします・・・・・。」

 この日も彼の母の霊眼には彼の幽界における住宅がまざまざと映りましたが、それは彼の言っているとおり、とてもあっさりした、郊外の文化住宅らしいものだったとのことでした。その見取り図もできていますが、わざわざお見せするほどのものではありませんから、ここでは省略いたします。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.16-21 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏が満鉄病院で急逝したのは、昭和4年2月28日の午後6時すぎであったそうです。その新樹氏の霊魂は、早くも3月11日には中西霊媒によって呼び出され、その時に立ち会ったのが和三郎先生の弟で、海軍中将であった浅野正恭氏で、これが新樹氏からの通信の始まりでした。これは復刻版の「(一)通信の初期」に述べられていますが、この部分も割愛し難いので、この現代文訳の途中か最後に、改めて挿入することになるかもしれません。

 ここでは、自分の体のこと、衣服のこと、部屋の様子や家具のこと、それに家や庭のことに至るまで、全く自由で自然な会話の中で、こまかく伝えられていることに驚嘆させられます。生垣に囲まれた割合に広々とした庭がある3室ほどの洋風の家に、黒っぽい和服を着て気楽に椅子に腰掛けている新樹氏の姿は、私たちにも眼に見えるようです。和三郎先生が、「そのうちひとつ、お前のお母さんの守護霊にでも頼んで訪問してもらおうかな」と言っておられますが、その時の新樹氏と同様、私たちも、「本当にそんなこと出来るんですか」とつい、聞いてみたいような気持ちにさせられます。(2013.07.19)

  8. (五)彼岸の修行 (その1)

 新樹はいったい幽界でどんな修行をしているかということは最初から私が聞きたいと思っていたことでした。
 昭和4年7月25日第10回目の招霊の際の記録を開いてみると、私は、彼の幽界における指導者について質問していました。

 問「お前にはやはり生前の守護霊が付いていて、その方に指導してもらっているのか?」
 答「守護霊のことをいうと僕はなんだか悲しくなるから、その話は止めてください・・・・・。現在僕を指導してくださるのは、何れもこちらへ来てから付けられたもので、みんなで五人おります。その中で一番僕がお世話になるのは一人のお爺さんです………。」
 問「その五人の指導者たちの姓名は?」
 答「それぞれに受け持ちがあって、想えばすぐ答えてくださるから名前などは要らないです………。」
 問「その五人の受持は?」
 答「むつかしいなあ、どうも・・・・・・。まだ僕には答えられない。とにかく僕が何かの問題を聞きたいと思えば、五人の中の誰かが出て来て教えてくださる。」
 問「幽界でお前の案内をしてくれる人もいるのか?」
 答「いますよ。案内してくださるのは、お爺さんの次の位の人らしい………。」
 問「現界と交信する時は誰が世話してくれるのか?」
 答「いつもお爺さんです。」
 問「勉強している科目の内容はどんなものか?」
 答「僕は慣れていないので、細かい話はまだできない。よく先のこと……神界のことなどを教えられます。」

 同年8月3日、第15回目の招霊の際には書物のことが話題になっていました。

 問「お前が書物を読んでいる姿が昨日お母さんの霊眼に映ったが、実際にそんなことがあったのか?」
 答「読んでいました。あれは霊界のことを書いてある書物です。僕が書物を読もうと思うと、いつのまにか書物が現われてくるので………。」
 問「その書物の用語は?」
 答「あの時のは英語で書いてありました。ちょっとむつかしいことも書いてあるが、しかし生前、英語の書物を読んだ時の気分とを比較して見ると、現在の方がよほどわかりよい。ぢつと見つめていると自然にわかってきます。」
 問「書物は何冊もよんだか?」
 答「そんなに何冊も読みはしません。ことによると幽界の書物は一冊しかないのかもしれません。こちらで調べようと思うことが、何でも皆それに書いてあるらしく思われますよ。つまり幽界の書物というのは、思想そのものの具象化で、読む人の力量次第で、深くもなればまた浅くもなり、また求める人の注文次第で、甲の問題も乙の問題もその一冊で解決されるといった形です。僕にはどうもそのように感じられます。」
 問「その書物の著者は誰か? またそれに標題がついていたか?」
 答「著者も標題もありませんよ。」
 問「お前が読んだものをこちらへ送信してくれないか。」
 答「お父さん、現在の僕にはまだとてもそんなことはできませんよ。こんな通信の仕方では僕の思っていること、感じていることの十分の一も伝えられはしませんもの………。」
 問「いまお前は書物がいつのまにか現われると言ったが、いったい誰がそんなことをしてくれるのだろう? ただで書物が現われるはずはないと思うが・・・・・・。」
 答「それはそうでしょう。自分一人でしているつもりでも、案外、蔭から神さまたちがお世話をしてくださっておられますからね。書物などもやはり指導者のお爺さんが寄越してくれたのでしょう、――きっとそうです。」

 新樹はまた修行の一端として、ときどき、幽界の諸方面の見学などもしているようですが、その内容をここに書き加えるのは煩雑になりますので差し控えます。
 とにかく、幽界の修行といっても、その向う方面はなかなか複雑なものであるらしく、とても簡単には片づけることはできませんが、しかし幽界の修行の中心は、煎じ詰めれば、それは精神統一の一語に帰し得るようです。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.22-25 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 和三郎先生が、幽界でどんな勉強をしているのかと尋ねていますが、新樹氏は、「僕は慣れていないので、細かい話はまだできない」と答えておられます。こういう質問は難しいのかもしれません。私も何人かの霊能者に同様の質問を潔典にしたことがあります。霊能者たちの反応はそれぞれが的外れではなかったものの、私が予想していた「言語学」という答えはなかなか得られませんでした。幽界や霊界では、学ぶ対象が変わってくるということもありそうです。

 多慶子夫人には、霊視でわが子の本を読んでいる姿が見えるというのは、感嘆させられます。問答では、新樹氏が英語で読んだ本について、その意味はぢつと見つめていると自然にわかってくると答えておられるのは、非常に興味深く感じられます。また、読んでいた本には「著者も表題もなく」、「こちらで調べようと思うことが、何でも皆それに書いてあるらしく思われます」というお答えには、幽界での読書がどんなものか、私たちもその一端を垣間見ることができたことになるのかもしれません。(2013.08.23)

   9. (五)彼岸の修行 (その2)

 精神統一・・・・・・・これは現世生活において何より大切な修行で、その人の真価はだいたいこれで決められるようであります。五感の刺激のまにまに、気分の向かうまにまに、あちらの花にあこがれ、こちらの蝶に戯れ、少しもしんみりとして落ちついたところがなかった日には、五十年や七十年の短かい一生は、ただ一場の夢と消え失せてしまいます。人間界の気のきいた仕事で、何か精神統一の結果でないものがあるでしょうか。
 しかし、物質的現世では統一に一心不乱にならなくとも、なんとかその日その日を暮らせます。ところが、一たん肉体を棄てて幽界の住民になりますと、すべての基礎を精神統一の上におかなければ到底収まりがつかぬようです。
 新たに幽界へ来たものが、通例何よりも苦しめられるのは、現世への執着であり、煩悩であり、それが心の闇となって一寸先も判らないようであります。地上の闇ならば、これを照らすべき電燈も、瓦斯燈もありますが、幽界へ来たものの心の闇を照らすべき灯火は一つもありません。心それ自身が明るくなるより外に、幽界生活を楽しく明るくすべき何物もないのであります。
 そこで精神統一の修行が何よも大切になるのであります。一切の雑念や妄想を払いのけ、じっと内面の世界に入り込み、表面にこびりついた汚れと垢とから離脱すべく一心不乱に努力する。それを繰り返し繰り返しやっている中に、だんだんまわりが明るくなり、だんだん幽界生活がしのぎ易いものになる。これよりほかに絶対に幽界で生きる途はないようです。
 昭和5年2月の16日、新樹はそれについて次のように述べています。――

 「僕が最初にこちらで自覚した時に、指導役のお爺さんから真っ先に教えられたのは、精神統一の必要なことでした。それをしなければ、いつまで経っても決して上へは進めないぞ!――そう言われましたので、僕は引き続いてそれに力をつくしています。
 その気持ですか……僕、生きている時には全く精神統一の稽古などをしなかったので、詳しい比較を申し上げることはできませんが、一口にいうと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の奥の方で自覚しているようなのが少し睡眠とは違いますね。僕なんかは現在、こちらでそうしている時の方がはるかに多いです。
 最初はそうしている際にお父さんから呼ばれると、ちょうど寝ぼけている時に呼ばれたように、びっくりしたものですが、近頃ではもうそんなことはありません。お父さんが僕のことを想ってくだされば、それはすぐこちらに感じます。それだけ幾らか進歩したのでしょうかしら………。
 この間お母さんの守護霊さんに逢った時、あなたもやはり最初は現世のことが思い切れないでお困りでしたか、と訊いてみました。すると守護霊さんもやはりそうだったそうで、そんな場合には、これはいけないと自分で自分を叱りつけ、精神を統一して神さまにお願いするのだと教えてくれました。
 守護霊さんは閑静な山で精神統一の修行を積まれたそうですが、僕はやはり自分の部屋が一番いいです。だんだん稽古したおかげで、近頃僕は執着を払いのけることが少しは上手になりました。若しひょっと雑念が出てくれば、その瞬間一生懸命になって先ず神さんにお願いします。すると忽ち、ぱらっとした良い気分になります。
 またこちらでは精神統一を、ただ執着や煩悩を払うことにのみ使うのではありません。僕たち常に統一の状態で仕事にかかるのです。通信、調査、読書、訪問・・・・・・・なに一つとして統一の産物でないものはありません。統一がよくできるかできないで、僕たちの幽界における相場がきまります………。」 

 以上はやっとの思いで幽界生活に慣れかけた一青年の告白として、幼稚な点が多いのは仕方がありませんが、少しは参考になるような箇所がないでもないように感じられます。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.25-28 (現代文訳 武本昌三)

  現代文訳者私感

 新樹氏はまだ幽界での生活を新しく始めたばかりですが、この通信からも、精神統一の修行が重要であることがよくわかります。「だんだん稽古したおかげで、近頃僕は執着を払いのけることが少しは上手になりました」と述べておられますが、この世で煩悩や執着に幾重にも囚われてしまっている私たちも、深く考えさせられることばです。日々の生活の中に静寂の時間を持つことを心がけ、瞑想や祈りをもっと取り入れていかなければならないのかもしれません。(2013.08.30)

    10.  (六)母の守護霊を迎える (その1)

 新樹が少し幽界生活に慣れるのを待ち構えて、私はそろそろ彼に向い、訪問・会見、散歩、旅行等の註文をしました。これは一つにはその通信の内容を豊富にしたいためでもありましたが、また、これによってなるべく新樹の幽界における活動力を大きくし、同時に、若くして父母兄妹と死別した新樹の深い心の傷をなるべく早く癒してやりたい親心からでもありました。
 このような方針は今後も恐らく変わることがないでしょう。ここには新樹が彼の住宅に母の守護霊を迎えた時の模様を紹介したいと思います。
 私が初めて来訪者の有無について新樹に質問したのは、昭和4年12月29日のことでした。その時は新樹が母の守護霊の来訪を希望する模様でしたので、早速その旨を守護霊に伝えました。

 問「子供が大へんさびしそうですから、あなたに一つお客様になっていただきたいのですが・・・・・・・。」
 答「そうでございますか。それは大へん面白いと思います。良い思いつきです………。」
 問「ではあなたからちょっとその旨を子供の方に伝えていただけませんか。」
 答「承知致しました。(少時の後)あの子にそう申しましたら大へんに喜びまして、それではお待ちいたしますから、との返答でございました。」

 その日はそれっきりで別れましたが、昭和5年1月元旦、私はこの約束どおり、新樹を呼んで、早速母の守護霊の来訪を求めさせました。地上生活とは異なり、こんな場合には.極めて簡単で、新樹がそう思念すれば、それが直ちに先方に通じ、そして先方は瞬時に訪ねて来るという仕掛けであります。
 それでも新樹は最初ちょっともじもじしながら、――
 「招くことは招きますが、時代が僕とは大変違うから、話がうまく通じるだろうか……。」 
 などと独り言を言っていました。私は多大の興味をもって、その成行きを待ちました。
 それからおよそ十分間ほど沈黙が続きましたが、その間に彼の母の霊眼には新樹の幽界における例の住宅が現われ、そこには新樹が和服姿で椅子に腰かけて居る・・・・すると、彼の母の守護霊が足利時代末期の服装で扉を開けて入って来る――そんな光景が手に取るように現われたのでした。
 その詳しい状況を新樹はつぎのように説明しています。

 僕はお母さんの守護霊さんに待っていていただいて、こちらの会見の模様をお父さんにご報告いたします。(新樹は生前そっくりの語調で、近頃になく快活な面持ちで語りはじめました)
 守護霊さんは、僕の見たところでは、やっと三十位にしか見えません。大へんどうも若いですよ。頭髪は紐で結えて後ろにたれてあります。着物はちょっと元禄らしい、丸味のある袖がついていますが、もっと昔風です。
 帯なども大へん幅が狭い、やっと五、六寸位のものですが、そいつを背後で結んでだらりと左右に垂らしてある。ちょうど時代物の芝居などで見る恰好です。着物の柄は割合に華美です。
 守護霊さんの容貌ですか………、報告係りの資格で、僕、かまわずぶちまけます。細面で、ちょっと綺麗な方です。額には黒い星が二つ描いてありますが、何といいますかね、あれは・・・・・・・そうそう黛(まゆずみ)、その黛というものがくっきり額に描いてあるのだから、僕たちとはよほど時代がかけ離れているわけです。履物ですか………履物は草履です。これは僕の眼にも大して変わったところはありません。
 「これが僕の部屋ですから、どうぞお入りください。」
 僕がそう言いますと、守護霊さんは大へんしとやかな方で、部屋の勝手が違っているので、ちょっと困ったというご様子でしたが、ともかくも中へ入って来られました。僕は委細かまわず自分の椅子を守護霊さんにすすめました。僕も一脚欲しいなあと思うと、いつのまにかもう一脚の椅子が現われました。こんなとこころはこちらの世界のすばらしく便利な点です。

  浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.28-31 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 「母の守護霊」というのは、多慶子夫人の守護霊である小桜姫のことで、この「小桜姫」については、浅野和三郎先生の『小桜姫物語』(潮文社)に詳しく述べられています。足利時代に相州三浦新井城主の嫡男・荒次郎義光の奥方として世に知られていました。小桜姫が多慶子夫人の守護霊になっているのは、多慶子夫人が小桜姫と関係の深い三浦半島に生まれ、5百年前に小桜姫が親しんだ山河に多慶子夫人も親しんでいたということがあったからかもしれません。

 ここでは、その小桜姫にお願いして、新樹氏の住居を訪問してもらった時の状況が詳しく述べられていますが、その様子が多慶子夫人の霊眼に「手に取るように現われた」というのには驚嘆させられます。新樹氏の説明にしても、地上のどこかから電話で伝えてきているかのような自然さで、現界と幽界を隔てる壁の存在をほとんど感じさせることがありません。余程の条件が揃わないと、これほどまでに自由な通信は望めないのかもしれませんが、それでも、このような通信が事実として行われていたということは、それを知るだけでも、私たちに大きな安らぎを与えてくれます。(2013.09.06)

   11.  (六)母の守護霊を迎える (その2)

 僕は守護霊さんと向き合って座りましたが、さて何を話してよいやら、なにしろ先方は昔の人で、僕はきまり悪くなってしまったのです。でも仕方がないから僕の方から切り出しました。 
 「時々霊視法やその他いろいろのことを教えていただいて、誠に有難う存じました………。」
 守護霊さんは案外さばけた方で、これをきっかけに僕たちの間に大へん親しい対話が交換されました。もっとも対話といっても、幽界では心に思うことがすぐにお互いに通ずるのですから、その速力は非常に速いのです。討話の内容は大体次のようなものです。――

 守護霊「いつもあなたのことは、別に名前を呼ばなくても、心に思えばすぐに逢えるので、一度もまだ名前を呼んだことがなかったのですが、今日は、はっきりきかせてください。何というお名前です?」
 僕「僕は新樹というものです。」
 守護霊「そうですか、シンジュというのですか。大変にあっさりした良い名前です………。私とあなたとは随分時代が違いますから、私の申すことがよくあなたに判るかどうかしれませんが、まあ一度私の話を聞いてみてください………。あなたはそんな立派な男子になったばかりで若くて亡くなってしまわれて大へんにお気の毒です。あなたのお母さまも、しょっちゅうあなたのことを想ひ出して嘆いてばかりおられます・・・・・・。しかし、これも定まった命数で何とも致し方がありません。近頃はあなたのお母さんも、またあなたも、大分あきらめがついたようで何より結構だと思っています・・・・・・。」
 僕「有難うございます。今後は一層気をつけて愚痴っぽくならないようにしましょう。ついては一つ守護霊さんの経歴をきかせていただけませんか・・・・・・。」
 守護霊「私の経歴なんか、古くもあり、また別に変わった話もないからそんな話は止めましょう。それより、あなたの現在の境涯をきかせてください・・・・・・・。」

 守護霊さんは、ご自分の身上話をするのが厭だとみえまして、僕がいくら訊こうとしてもどうしても話してくれません。仕方がないから、僕は自分が死んでからの大体の状況を話してやりました。そうすると守護霊さんは大へん僕に同情してくれて、幽界における心得といったようなものを聞かせてくれました。――

 守護霊「私の亡くなった時にも、いろいろ現世のことを思い出して、とてもたまらなく感じたものです。でも、死んでしまったのだから仕方がないと思って、一生懸命に神さまにお願いして、それで気が晴れ晴れとなったものです。そんなことを幾度も幾度も繰り返し、だんだん月日が経つうちに現在のような落ち着いた境遇にたどり着きました。あなたもやはりそうでしょう。やはり私のように神さんにお願いして、早く現世の執着を離れて向上しなければいけません・・・・・。」

 僕は守護霊さんの忠告を大へん有難いと思って聞きました。それから守護霊さんは僕がどうして死んだのか、根掘り葉掘り、しつこく訊ねられました。――

 守護霊「そんな若い身で、どうしてこちらへ引取られたのです。くわしく話してください……。」
 僕「僕、ちょっとした病気だったのですが、いつのまにか意識を失って死んだことを知らずにいたのです。そのうち叔父さんだの、お父さんだのから聞かされて、初めて死を自覚したので………。」

 僕は厭だったからわざと詳しい話はせずにきました。それでも守護霊さんはなかなか質問を止めません。――

 守護霊「それでは、あなたは死ぬつもりはなかったのですね?」
 僕「僕、ちっとも死ぬつもりなんかありません。こんな病気なんか、なんでもないと思っていたんです。それがこんなことになってしまったのです………。」
 守護霊「お薬などは飲まなかったのですか?」
 僕「薬ですか、少しは薬も飲みました………。しかし僕、そんな話はしたくありません。僕の執着がきれいに除かれるまで病気の話なんかお聞きにならないでください……。」

 この対話の間にも守護霊さんは気の毒がって、さんざん僕のために泣いてくれました。やはり優しい、良いお方です。お母さんの守護霊さんですから、僕のためにやはりしんみになってお世話をしてくださいます。「なんでもわからないことがあったらこちらに相談してください。私の力の及ぶ限りはどうにもして、お力添えをしてあげます………。」親切にそう言ってくださいました。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.31-34 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは、足利時代末期の女性と昭和初期の若者との幽界での会見の模様がどういうものか、心理描写を含めて、細かく伝えられています。対話では、心に思っていることがすぐ相手に伝わっていくことはわかっていますが、それが私たちにも、具体的にこのような文字の形で理解できることは、たいへ有難いことに思えます。

 その対話で、新樹氏が「ちっとも死ぬつもりはなかった」のに死んでしまったことを聞いた守護霊さん(小桜姫)が、「さんざん僕のために泣いてくれました」と新樹氏が述べておられるのには、涙を誘われます。守護霊さん自身がそうであったように、初めのうちはどうしても現世のことを思い出したりすることが多いようですが、やがて、そのような「執着」からも離れて、だんだん向上していくことになるのでしょう。(2013.09.13)

    12.  (六)母の守護霊を迎える (その3)

二人の間には、ほかにもいろいろと雑談が交わされました。――

 守護霊「家屋の造りが大変違いますね・・・・・・。」
 僕「時代が違うから、家屋の造りだって違います。」
 守護霊「たったお一人でさびしくはありませんか?」
 僕「別段さびしくもありません。僕はいろいろの趣味をもっていますから・・・・・。現にここに懸けてあるのは僕の描いた絵です。」
 守護霊「まあ、この絵をあなたがお描きなすったのですって?こちらへ来てから描いたのですか?」
 僕「そうです。これが一番よく描けたので大切に保存してあるのです………。」
 僕が自慢すると守護霊さんは、じっと僕の絵を見つめていましたよ……・・。

 大体上に記したところが、新樹によって通信された会見の顛末でした。私が直接会見の実況を目撃して書いたのでなく、当事者の一人である新樹からの通信を間接に伝えるのですから、いささか物足りないところもありますが、しかしこれは、こうした仕事の性質上致し方がありません。それで、幾分でもこの不備を補えるように、つぎに彼の母の守護霊との間に行われた問答をあげておくことに致します。これは新樹が退いてからすぐその後で行われたものです。

 問「ただ今子供から通信を受けましたが、あなたが新樹を訪問されたのは今回が最初ですか?」
 答「そうでございます。私はこれまで一度も子供を訪ねたことはございません。」
 問「あなた方も、時々は他所へおでかけになられる場合がおありですか?」
 答「それはございます。修行する場合は他所へ出掛けもいたします。もっとも、たいていの仕事はじっと座ったままで用が足せます・・・・・・。」
 問「今日のご訪問のご感想は?」
 答「ちょっと勝手が違うので奇妙に感じました。第一、家屋の造りが私たちの考えているのとは大変相違していましたので゙・・・・・・」
 問「あなたは先程しきりに子供の名前を訊かれたそうで・・・・・・・。」
 答「私、今までは、あの子の名前を呼びませんでした。私たちには、心でただあの子を思えばすぐ通じますので、名前の必要はないのです。しかし今日は念のためにはっきり聞かせて貰いました。シンジュと申すのですね。昔の人の名前とは違って、あくどくなくて大へん結構だと思いました。」
 問「あなたは、あの子をやはり、ご自分の子のように感じますか?」
 答「さあ………じかに逢わないといくらか感じが薄い気がいたします。けれども、今日初めて訪ねて行って、逢ってみると、大変にどうも立派な子供で………私も心から悲しくなりました。どうしてまあ、こういう子供を神さまがこちらの世界にお引き寄せなさいましたかと、口にこそ出さなかったものの、随分ひどいことだと思いまして、その時には神さまをお怨みいたしました。――私から見ると、子供はまだ執着がすっかり取りきれてはいないようでございます。あの子供は元来陽気らしい性質ですから、口では少しも愚痴を申しはしませんが、しかし、心の中ではやはり時には家のことを思い出しているようでございます。私は子供に、自分の経験したことを物語り、自分も悲しかつたからあなたもやはりそうであらう。しかしこればかりは致し方がないから早くあきらめる工夫をしなければいけないと申しますと、子供も大へん喜びまして、涙をこぼしました。涙の出るのも当分無理はないと思います。自分にちっとも死ぬ気はなかったのですから………。私は別れる時に、もしわからないで困ることがあったら、遠慮せず私に相談をかけるがよい。私の力に及ぶかぎりは教えてあげるからと言っておきました………。」
 問「この次は一つ、あなたのお住居へ子供を招いていただけませんか?」
 答「おやすいことでございます。もっとも住居と申しましても、私の居る所は狭いお宮の中で、他所の方をお招きするのにはあまりふさわしくありません。どこか、あの子の好きそうな所を見つけましょう。心にそう思えば、私たちにはどんな場所でも造れますから・・・・・・・。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp.34-38 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏が、おそらく日本の昭和初期にみられたような現代風の家に住んでいて、その部屋の中には、「こちらへ来てから描いた」という絵が懸けられているのは興味深く感じられます。私は昨年の春に訪れた、妹の美智子様の家の居間の壁に懸けられていた絵を思い出しました。新樹氏が大連に赴任する前に描かれた絵の一枚です。「僕はいろいろの趣味をもっていますから、別段さびしくもありません」と言っておられるのにも、何か、救われるような気がします。

 新樹氏の家へお母さんの守護霊である子桜姫が訪問して、その様子を新樹氏がお父さんの和三郎先生に報告された後、和三郎先生が、今度は、その同じ訪問の様子を、小桜姫からもすぐ後で聞き出されていることにも、驚ろかされます。このような内容の会話が自由に行われたということが、ちょっと信じられないような気持ちもいたします。「この次は一つ、あなたのお住居へ子供を招いていただけませんか?」と語りかけている和三郎先生のことばが、実は、霊界の守護霊に向けられていることを、優れた霊能者でなければ誰が容易に理解できるでしょうか。(2013.09.20)

    13. (七)母の守護霊を訪ねる (その1)

 前回の通信を受取ってからまもなく、昭和5年1月4日午前9時頃に、私はまた、新樹を呼びだして訊ねました。――
 「あれからお前はお母さんの守護霊を訪問したか?」
 新樹は大変元気よく答えました。――
 「ええ、早速訪問しました。いつかの約束は実行しました。」
 そう言って彼は、ぽつりぽつりその際の状況を話してくれました。――
 この訪問については、僕は無論前もって指導役のお爺さんの諒解を求めておきました。お爺さんは、それは結構だと言って、大へん喜んでくれました。
 僕は現世にいた時のようにやはり洋服を着てでかけました。もとから僕は他所を訪問する時にはちゃんとした風をして行くのが好きで、その心持はこちらへ来ても少しも変わりません。なに、その時の僕の姿ですか………では早速お母さんの霊眼にお目にかけます………。
 あとで彼の母の物語るところによれば、生前愛用の渋味のある茶色っぽい洋服を着て、細いステッキを携えた新樹の身軽な姿が、鮮明に眼裏に映ったということです。
 新樹の話はなお、次から次へと続きました。――
 さて先方へ着いてみると、むろん守護霊さんはよろこんで僕を迎えてくださいました。
 「まあ、あなたの今日のご様子はすっかりこの間とはちがいますね。」
 そう言って、物珍らしそうに僕の洋服姿に見入っておられました。二十世紀の若い洋服青年と、足利末期の上臈姿の中年の婦人との取り合わせなのですから、実際、よっぽど妙だったにちがいありませんね。あえて時空を超越しているほどではないのですが、よもやこんな芸当ができようとは、僕、生前ちっとも想像しておりませんでした………。
 「私はこんな粗末な、狭い場所に居りますので」と守護霊さんはどこまでも同情深く「さぞあなたは窮屈で面白くないでしょう。どこか他所へお連れしましょう。」
 「いいえ、一度守護霊さんの住んで居られる場所を見せてください」と僕が申しました。「窮屈なくらいちっともかまいません。それが済んでから何所かへ案内していただきましょう………。」
 先日守護霊さんのお言葉にもあった通り、あの方は矢張りお宮に住んで居られるのですね。場所は海岸の非常に閑静な……いや、むしろ閑静を通り越して物寂びしいくらいのところで、尾根は銅葺きの、あまり大きくない、きれいなお宮です。「これが守護霊さんの何百年かに亘る長い長い歳月の間、静かに鎮まっておられるお宮か………」と思うと、僕は何ともいわれぬ厳粛な気分に打たれました。帽子を脱いで扉の内部へ入ってみると、一面に板の間になっていて、奥の正面の個所に神さまがお祀りしてあるばかりで、家具だの什器だのといったようなものは何一つも見当たらない、まことにさっぱりしたものでした。「こんなところで修行三昧にひたつているから守護霊さんは霊能が優れているのだ………」と僕はつくづく感心しました。これというのも皆その人の性格からくるのでしょう。僕なんか、あんな生活はとても御免だ……‥。
 守護霊さんは何のもてなしもできないで困るとおっしゃって、大へんに気を揉まれました。

 守護霊「どこへお連れしましょうね?あなたはどんな場所がお好ですか?」
 僕「場所なんかどこでも少しも構いません。それよりか僕はゆっくり守護霊さんからお話を伺いたいです。」
 守護霊「そうですか。ではこの上のお山はたいへん風景のよいところですから、そこへお連れしましょう。」

 僕達は早速上の山へ行きましたが、あたりは樹木が鬱蒼と生え茂り、一方にちょろちょろした渓流があって、大きな岩がほどよくあしらわれ、いかにも絶勝の地ではありましたが、しかし僕にはそんな場所は何やら寂びし過ぎるように感じました。

 僕「守護霊さん、あなたはここで修行をされたのですか?」
 守護霊「自分はどういうものか、こんなさびしい場所が好きで、修行はたいていここへ来てやりました。あの水辺の大きな岩の陰、あそこが私の一番気に入った所です。」

 守護霊さんは、それが当然だというふうにおっしゃるのですが、どうしてそんな気持ちになれるのか、僕にはむしろ不思議なくらいでした。「なんだってこんな陰気なところで修行されるのだらう………いやだな」――僕は実際そう思いました。しかし好きも嫌いも、皆その人の性質の反映ですから、こればかりは致し方がありませんね。地上の生活でもそうした趣きがありますが、こちらへ来るとそれがいっそう顕著なようで、善悪にかかわらず、めいめい自分の落ち着く場所に落ち着くより外に途がないようです。
 僕達の間には自然に修行についての話も出ました。――

 守護霊「私の修行といったらつまり主に統一をやるのですが、あなたもやっぱりそうでしょう。」
 僕「むろん、そうです。が、僕なんかまだまだだめです。どうも雑念妄想がいつの間にか、むらむらと起こってきて困ってしまいます。これからみっしり努力するつもりですが・・・・・・。」
 守護霊「あなたはどこで修行をなさいます?」
 僕「僕はやはり自分の部屋でやるのが一番気持ちが良いです。僕はこんな陰気な山の中などで坐るのはいやです………。」

 構わないと思って、僕がそう言ってやりますと、守護霊さんは微笑を浮べて「こんなさびしい場所へ連れて来て、ほんとうにお気の毒です」と言われました………。
 精神統一の話に続いて、僕は再び守護霊さんの身の上話を聞こうとしましたが、やはり駄目でした。「大へん年数も経っているので記憶が薄らいでしまった………」そんなことを言われるのです。どうも昔のことを想い出すのが多少苦痛なのでしょうね。お母さんの守護霊さんの経歴は、一つお父さんから直接に訊いてください。ちょっと僕の手には負えません…‥…。
 続いて守護霊さんは相変わらず、僕に向かっていろいろのことを訊かれました。僕が幼少の時のこと、学校時代のこと、それから亡くなる時にはどこに居たかというようなこと……。僕は仕方がないから大体話しておきました。詳しいことは守護霊さんから聞いてください。やはり僕のことを自分の子供のように思うらしく、いろいろ世話を焼いてくれます。僕の方でも、お母さんとは少し違うところもありますが、いくらかそんなような気持ちがして、自然無遠慮な口の利き方もします。「そんなに僕の生前のことをお聞きになりたいなら、いずれゆっくりお話しいたましょう。材料なんか澤山あります・・・・・・。」僕はそう気炎を吐いておきました。
 とにかくお母さんの守護霊は、亡くなってから相当長い歳月を経ていますので、その修行も、われわれとは違って大分出来ている様子に見受けられます。優しい中に、なかなかしっかりしたところのある方です。身体はどちらかといえば痩せぎすで、すんなりしています………。

 新樹の報告はだいたい以上のようなものでした。例によって、それと入れ代りに続いて彼の母の守護霊に出てもらい、新樹との会見の様子を話してもらいました。それはこうです。――

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp.38-43(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏自身が「よもやこんな芸当ができようとは」と述懐しておられますが、ここでは、20世紀の洋服姿の若い新樹氏が足利末期の上臈姿で中年の小桜姫の家を訪問しています。その時の新樹氏の「生前愛用の渋味のある茶色っぽい洋服を着て、細いステッキを携えていた身軽な姿」が、多慶子夫人の眼裏には鮮明に映ったというのには、いつものことながらその優れた霊能力に驚嘆させられます。

 多慶子夫人の守護霊である小桜姫の家の様子、山のなかの樹木が鬱蒼と茂っていて渓流が流れており、その水辺の大きな岩の陰が小桜姫の好きな修行の場所であるということなど、を見たり聞いたりしたうえで、新樹氏が、修行をするのに「こんな陰気な山の中などで坐るのはいやです。やはり自分の部屋でやるのが一番気持ちが良いです」などと言っておられるのには、微笑を誘われる読者の方も多いのではないでしょうか。(2013.09.27)

  14. (七) 母の守護霊訪ねる (その2)

 この間は子供が訪ねて来て大へんに失礼しました。私の住居はあんな粗末なところでございますから、ほんとうにお気の毒に思いました。でも大そうさばけた子供で、是非私の住居を見たいと申しますから、内部へ案内しますと、「大分僕たちとは勝手が違う」と言って、しきりにあたりを見まわしていました………。
 私は別にお宮に住みたいと思ったわけではないのですが、どういうものかお宮ということになってしまいました。こんなことは自分の一存だけではいかないところがあるのです………。
 あの子の服装は、この前会った時とはすっかり変わっているので、びっくりいたしました。あれが只今の時代の服装なのですね。なかなか大きな男でございますね・・・・・・。
 それからあなたもご存じのあの裏の山へ案内して、そこでいろいろと物語りをしました。その時子供は、こんな面白いことを申しました。「この山はたいへんよい景色ではあるが、しかし現界の山とはどこやら気分が違う。達者な時に随分山登りもやったが、この山で感じるような気持にはただの一度もならなかった。ここに立っていると、自然と気がしーんと沈んでしまう………。」そう言ってたいへん感心しているのです。やはり私が修行するように出来ている山なのですから、あんな陽気な気分の子供には寂しくて仕方がないのでございましょうね。とにかく幽界へ来てからは、めいめい自分に適した境涯に落ちつくよりほかにいたし方がないものと思われます。
 それから、私はあの子の幼少の時代からのことをいろいろと訊ねました。あなた方には別に珍らしくも何ともない事柄でございましょうが、私には非常に興味の深い物語でした。かいつまんで筋道だけを申しますと、あの子の申したことは大体こういうようなことでございます。――

 「僕は幼少の時から身体が丈夫で、かなりいたずら坊主でもあった。こんなことをいうと他人が笑うかもしれないが、勉強もよく出来た方で、大へんに父母にも可愛がられた。僕も一生懸命に勉強し、次第に上級の学校に入り、二十二歳の時に長崎の高商を卒業した。守護霊さんとは時代がちがうからおわかりになるまいが、卒業後には直ちに会社というものに入った。しばらくしてから、その会社から遠方へやられ、そこで亡くなった。立派な人になろうと思って大いに気張って働いたものだが、思いもかけない病気のためにこんなことになり、両親にも気の毒でたまらない………。」

 こんな話をしているうちにだんだん悲しそうな様子が見えましたから、これはいけないと気づきまして、私は早速話題を変えました。――

 問「あなたは只今遠い所へやられたと言われましたが、それは何という所ですか?」
 答「大連という所です。」
 問「その大連という所はどんな所です?」
 答「大へんに賑やかな立派な街で、家屋なども内地よりはかえって上等で。」
 問「そこであなたはどんな仕事をしていたのですか?」
 答「むろん会社の仕事をしていました。そこでも大へん皆さんから可愛がられ、僕は非常にそこの勤めが好きでした。また僕はいろいろのことに趣味が多いので、どこへ行っても退屈ということを知りませんでした。中でも僕が好きなのは、音楽と絵画で、大連で描いた絵などもかなり沢山あります………。」

 よい按配にこんな話をしている中に、子供は再び元の快活な状態に戻りました。もともとあの子は陽気な性格なのでございますね。あんな陽気な子が、むざむざと若死したというのは、ほんとうに可愛想だと思います………。
 でも若死したので、それがこちらで奮発する種になるのでございます。「このまま空しく引込んでしまうのはあまりに残念だ。これから懸命に修行して幽明交通の途を開き、大いに父を助けてみ国のために尽くそう………。」口には出しませんが、あの子の思いつめていることはよく私にも感じられます。これから後も、私は努めてあの子と会うことにいたしましょう………。

 この日新樹の母の守護霊が私に物語ったところは、だいたい上のとおりでした。うれしいのは.両者の間に、次第に母子の関係らしい、親しみの情が加わりつつあることで、私としては、そうした傾向を今後一層助長させたく切望している次第であります。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.43-46 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 多慶子夫人の守護霊である小桜姫がお宮のような住居に住むようになったのは、「自分の一存だけではいかないところがある」と述べているのは興味深く感じられます。新樹氏の場合もそうであるように、霊界では自分の好みの家に住めるはずですが、修行のために「上層部」から指導を受けることもあるのでしょうか。山の雰囲気が現界とはかなり違うことについての新樹氏のことばもたいへん参考になります。

 新樹氏と5百年くらいの「年齢差」のある小桜姫が、「長崎の高商」とか「会社というもの」「大連という所」などについて新樹氏から聞いたことをそのまま正確に伝えていることにも興味をそそられます。このとおりの日本語で、ことばが行き来しているわけではないと思われますが、このような日本語をごく自然に紡ぎだしている多慶子夫人の高度の霊能力には、やはり敬服の念を抑えることができません。(2013.10.04)

  15. (八) 一 周 忌 前 後 (その1)

 月日の経つのは速いもので、前後五十幾回かの招霊を重ねているうちに、早くも新樹の一周忌の2月28日が近づきました。
 心弱いとお笑いになる方があるかもしれませんが、その日が近づくとともに、私も妻もどうしても新樹の霊を呼び出す勇気が起こりませんでした。
 「とうとうあの子の紀念の日が近づいてしまった。大分あきらめがついたようでも、あの子はやはり在りし日のことを追憶して悲しんでいるだろう………。」
 そう考えるとつい気後れがして、昭和5年2月16日に呼びだしたきり、一時ばったり招霊には遠ざかってしまいました。
 そのうち28日が来ましたので、当日は自宅でほんの内輪の縁者のみを招いて心ばかりの祭事を行い、いささか新樹の生前の面影を偲び合いました。同時に彼の臨終地である大連においても、彼が生前お世話になった古河電機の方々をはじめ、多くの友人達が集まって盛んな追悼祭を営んでくださったと承りました。
 「こんな事はきっとあの子の方に感應しているに違いない………。一つ思い切って呼び出して様子をきいてみようかしら?」
 3月も10日になった時に、私は初めて新樹に逢ってみる気になりました。彼の母もようやくそれに賛同しました。
 「では坐ってみましょうか・・・・・。」
 間もなく彼女の身体は、例の通り新樹の生前の姿態そのままに、少し反り気味になりましたが、心なしか、今日は少しその様子が沈んでいるように見受けられました。やがて語り始めました。――

 「新……新樹です……。しばらくでしたね。」
 「いや大変どうもしばらくだった。少し取り混んでいたものだからゆっくり坐っている暇がなかった。幽界に昼夜の区別がないといっても、時日の長い短いぐらいの観念はあるとみえるね?」
 「それはお父さんありますよ。今度は大分ゆっくりだな、と僕はそう思っていました。」
 「それは大変すまなかった………。近頃お前の方に何か変わったことはなかったかい?」
 「別に大したことありませんでしたが、ただここしばらくは僕の方に非常に強く感じてくることがあって閉口しました。いろいろの人がしきりに僕の事を思ってくれている………それがひしひしと僕の方に感じられるのです。それで、これはきっと僕の命日がめぐってきたのに相違ない。僕が死んでもう一年になるのだ………そう僕は感づきました。そんなことがあると、僕の方でもつい現世の事を想い出して困りました。いけないと知りつつ、つい地上生活が眼に浮かんで………。」
 いつのまにか大粒の涙がぽろりぽろりと彼の母の両頬に伝わるのでした。

 私はなるべく平静な態度で話をすすめました。
 「実は今日は3月10日で、お前の一年祭は10日以上も前に済んだのだ。叔父さんだの、叔母さんだの、ほんの内輪の者ばかり招いて、神主に祝詞をあげてもらったのだが、それがお前の方に通じたとみえる………。」
 「何やら遠くの方で祝詞のようなものを感じました。そしていろんな人がしきりに僕に逢いたがっているのです。そんな時は僕だって矢張り逢いたいのです・・・・・・。」
 「お前の執着が薄らぎさえすれば、それにつれて現世がだんだんはっきり見えてくるのだから、そう悲観したものではないだろう。まあゆっくりやるさ。」
 私は軽く受け流しておきました。新樹の態度にもだんだん落ち着きがみえてきました。
 「僕の家の方もそうですが、その頃大連の方にも大勢集まっているように感じました。いろいろの人達ががやがやと僕の名を呼んだり何かしているのです。あまり細かいことはわかりませんが、何にしろ僕のことをしきりに追憶してくれていることはよく通じました。大連には僕の友達の青柳もいるようでした。青柳はもう帰ってきたのでしょうか?」

 青柳君は満鉄の社員で、かねてよりロンドンに留学していたのですが、2月の末には任地に帰っていたらしいのです。青柳君がパスポートの手違いで、ロシアの官憲に一時抑留された話は、当時の新聞電報にも載っていました。

 「さあ私もよく知らないが」と、私は答えました。「2月28日頃には多分大連へ戻ってきていたのだろう。帰っておれば、お前の追悼会には必らず出席したはずだ。ロンドンでもしきりにお前のうわさをしていたぐらいだから………。」
 「そうでしょうね。僕にはたしかに青柳が居るように感じられたのです。あの男にはお父さんもロンドンで大へんお世話になったそうですね。」
 「いや大へん世話になった。青柳君はロンドンで、新樹君と一緒だと面白いのだがなあ、としきりに言っていたよ。」
 「そうでしたろう。そんな話を聞くと、僕はまた残念だという気がします。いけないことと知りつつ、どうも現世の執着が容易に除き切れないで困ります。」
 「無理もないが、しかし男らしくあきらめが肝腎だ。そんな話はもうこれで止めることにしよう・・・・・・」
 「ではお父さんから、大連の皆さんによろしく言ってあげてください。お祭りをしてもらって、非常にうれしかった、とそう仰ってください。」
 「承知した。」

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.47-51(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏が大連で急死してから一周忌を迎えた和三郎先生や多慶子夫人のお気持ちに胸を打たれます。この対話で、現世で家族や大連での同僚たちの新樹氏を想う気持ちが、新樹氏にもこのように伝わっていくということが私たちにも理解できて、有り難いことだと思います。新樹氏は「大連には僕の友達の青柳もいるようでした」と言っておられますから、一周忌の段階で、すでにそこまで感応できていることになるのでしょうか。

 和三郎先生は1928年にロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議に出席して、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演をされていますが、その時ロンドンに留学していた満鉄社員の「青柳君」が、和三郎先生の案内役をしてくれていました。そのことを話題にして自由に話し合いをされたあと、「大連の皆さんによろしく」と新樹氏がごく自然に言っておられるのにはやはり驚ろかされます。(2013.10.11)

  16. (八) 一 周 忌 前 後  (その2)

 私達の対話はそれでちょっと中断しましたが、しばらくして新樹の方から切り出しました。
 「実はね、お父さん」と彼は割合に快活な語調で、「僕はあの時分、あんまりくさくさしたものですから、思い切って散歩に出てみたのです。ついでにその話をしましょうか?」
 「幽界の散歩――それは面白い。話して貰おう。」

 「こちらの散歩は現世の散歩とは大分気分が違います。僕はどこというあてもなく、あちらこちら歩いてみたのですが、いや何ともいえない、のんびりとした感じでした。行ったのは公園みたいな所ですが、少しもせせこましいところがなく、見渡すかぎり広々としていて、そして一面にきれいな花が咲いている。それらの花の中には、生前ただの一度も、見たことのないようなのもありました。その色がいかにも冴えざえしていて、地上の花とはどことなく違うのです。で、幽界の花にもやはり根があるかしら・・・・・・僕はそう思ったので、一本の花を手でいじってみましたが、根はやはり張っているものらしく、なかなか抜けませんでした。」
 「面白いね、どうも………。お前はその花を摘んでみなかったのか?」
 「いや摘んでみました。そしてそれを自分の部屋に持って帰って花瓶に挿し、幽界の花がどう現世の花と違うのかを調べてみたのです。僕たちの世界には昼夜の区別がなく、従って日数を申上げるわけにはまいりませんが、花瓶の花は別に水をやらなくてもいつまでも萎れないのです。ちゃーんと立派に咲き匂っているのです。そこが地上の花とは大いに違う点ですね。どうも僕が花を忘れずにいる間は、花はいつまでも保存されていたように思いますね。そのうちに、僕はいつしか花のことを忘れてしまいました。ふと気がついて見た時には、もう花は消え失せていました。僕にはそれが不思議でなりません。あの花はいったい何所へ行ってしまったのでしょう・・・・・・。」
 「さあ私にもわからんね、幽界の花の行方は………。とにかくそいつは大変面白い研究だった。花を摘む時の具合は地上の花を摘むのと同じだったか?」
 「同じでした。茎がぽつんと切れる具合が、少しも変わりませんでした。」

 「ところで、お前が行ったその広い公園には誰も人が行っていかったか?」
 「最初は誰も見かけませんでした。僕一人で公園全体を占領したようなもので、実にのびのびした良い気持でした。第一、いくら歩いても暑くもなければ、寒くもなく、また少しも疲労を感じないのですからね。そうするうちにふと、僕の歩いている背後から二人連れの男女がやってきました。男は二十二三、女は十七八で、どちらも日本人です。僕が言葉をかけようかと思っているうちに、二人はツーツーと向こうへ行ってしまい、ろくに顔を見る暇もありませんでした。僕は何だか少しあっけなく感じたので、今度誰か来たら話しかけてみようと思いました。幸いにそこに一脚のベンチがあったので、僕はそれに腰をおろして、人の来るのを待ちました。するとしばらくして、十五六の男の子が出てきました。僕は非常にうれしかったものですから、ちょうど生前やったようにその子供に話しかけました。子供の方でも喜びましたが、しかしよほどびっくりしたものとみえ、何とも返事をしないのです。その子は可愛い洋服を着て、半ズボンを穿いていました。しばらく僕の傍に腰をかけているうちに、ようやく話しをするようになりました。いつ幽界へ来たのかと訊いたら、もう随分以前に僕は死んだのです、と言っていました。よほどの家柄の生まれらしく、なかなか品位のある子でした。僕は、ここでまた逢うからそのうちに出てきなさい、と言っておきました。さようなら、と言いも終わらぬうちにその子の姿は消えました。そんなところは非常にあっけなく、なんだかちょっと頼りないのが幽界の生活の実情です。慣れないせいかもしれませんが、僕にはまだまだ地上の生活の方がなつかしいです。現に地上の人たちは僕の一周忌を忘れもせずに、大勢集まって懇ろに追悼会などを催してくれるのですからね………。」

 新樹がまたしめりがちになりそうな様子なので、私は急いで話題を他に転じ、数分間よもやま話を交わしてその日の座を閉じたのでした。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 51-54(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは、幽界での散歩はどういうものか、幽界の花が地上のものとどう違うかというようなことについて、新樹氏が教えてくれています。散歩の途中で摘んできて花瓶に挿して飾った花が、水をやらなくても萎れることはないことや、その花のことを忘れていると、いつのまにか消えてしまっていたというのは、大変興味深く感じられます。

 公園で逢った15,6歳の品のよい少年とのあっけない別れで、新樹氏が「まだまだ地上の生活の方がなつかしいです」と言っておられるのには同情を禁じ得ません。ここでも、地上でご自分の一周忌に大勢の人が集まってくれたことを思い出しておられますが、このように地上からの思いは、あの世の家族や愛する人に間違いなく伝わっていくことを、私たちもしっかりと確認しておきたいものです。(2013.10.18)

  17. (九) 再生問題その他  (その1)

 私と新樹の間では、すっかり寛いだ気分で、これという特別の題目を設けずに雑談を交わすこともしばしばあります。それらの中には、もちろん何等とりとめのないのもありますが、また、時として、そのまま葬ってしまうのも惜しいと思われる部分がないでもありません。手帳の中から手当たり次第に抜き出してみましょう。

 問「生前の記憶は死んでもはっきり残っているものか?」
 答「そうですね、生前のことを考えると皆ぞろぞろと眼に浮んできますね。生きていた時よりも却ってはっきりしているようです。当時を思い出して僕は時々うれしい気分にひたることもあります……」
 問「お前の過去の短かい生涯でいつが一番うれしかったか?」
 答「そうですね、僕の思い出の中では、中学卒業後、長崎へ行って居た時代が一番面白かったと感じますね。ここを卒業したらどんな所に行くのかしら……そう思って勉強していました。会社に入ってからは、何やら身が固まったようで、それほどには面白くなくなりました……。」
 問「横須賀時代にはよくお前は海水浴に行ったものだが、そちらで海水浴をやりたくはならないか?」
 答「いや、この間一度行ってきましたよ。ある時僕がふと、海に入りたいな、と思うと、途中の手続きはわかりませんが、とにかく、僕はきれいな海岸に行っていたのです。そこで僕は泳いでみました。その感じですか……。水の中に居るような感じはしますが、別に冷たくもまた温くも感じない。そしていくら泳いでも疲れない。要するに海水浴の気分がするだけで、生前の海水浴とは大分勝手が違うのです。向こうの方で誰だか一人泳いでいたようでしたが、はっきりわかりませんでした・・・・・・・。」
 問「お前はそちらで、親族の誰かに逢つたかな?」
 答「ええ、この間お祖母さんを訪ねてみました。僕がおばあさん、と呼んでみても返事がありません。お祖母さんはまだあんまりはっきりしていないようです。といって、全然無自覚でもなんでもない。静かに眼をつぶって、良い気持ちでうつらうつらしているといった様子なのです……。」
 問「呼んで自覚させる必要はないかしら?」
 答「さあ、おばあさんは別に苦痛がありそうでもなし、またこれを呼び覚ましてどうこうということもないのですから、あのまま安らかに眠らせておいて、自然に眼が覚めるのを待った方がよいかと思いますね……」
 問「お祖父さんにはまだ逢わんかな?」
 答「まだ逢いません。僕これから早速逢ってきます。地上と違って、こんな場合には都合がよいです……。」
 そう言って沈黙がちょっと続きましたが、やがて彼は戻って来て祖父訪問の状況を報告するのでした。「僕行って来ました。お祖父さんは、お祖母さんよりも後で亡くなったのに却って自覚が早いようです。生前のようにきちんと坐って、にこにこしていました。僕が、おじいさん!と呼びかけると、返事はしないが、どうやらわかったようです。よほどはっきりした顔をしていました。――が、おじいさんも通信はまだ無理です。格別お父さんの方で用事がないなら、もうしばらくあのまま楽にさせておかれたらよいでしょう……。」
 問「幽界へ行ったものがどうして自覚が速かつたり、遅かったりするのだろう。お前の一存でなく、指導役の方々に訊いて返答をしてもらえないか?」
 答「おやすい御用です……。――伺ってみるとやはり信念の強いものが早く自覚するそうで、その点において近代日本人の霊魂は甚だ成績が悪いようです。現に僕なども、自分の死んだことも自覚せず、また自分の葬式の営まれたことも知らずにいたくらいですからね……。」
 問「唯物論者――つまり死後の個性存続を信じない連中は死後どうなるのかな?」
 答「非常に自覚が遅いそうです。」
 問「一つこれから自覚していない人たちの実況を見てくれないか?」
 答「承知しました。――今その一部を見せてもらいましたが、いやどうも、なかなか陰惨ですね。男も女もみな裸体で、暗いところにごろごろして、いかにも身体がだるそうです。僕は気持が良くないというよりも、むしろ気の毒の感に打たれ、この連中は一体いつまでこの状態に置かれているのですか、とお爺さん(指導霊の一人)に訊いてみますと、この状態は必ずしも永久に続くものではない。中にはまもなく自覚する者もある。自覚する、しないは本人の心掛け次第で、他からはいかんとも為し難いのだ、という返事でした……」
 問「再生のことを一つ訊いてもらおうか?」
 答「お爺さんに伺って見ると、再生する者と再生しない者と二種類あるそうです。後者はそのままずっと上の界へ進むので、その方が立派な霊魂だそうです。それほど浄化していない者は分霊を出すことによって浄化する。浄化した部分は霊界に残るが、浄化していない分霊は地上に再生する。――ざっとそういった手続きだそうです。赤ん坊でもその全体が再生するということはないそうで……。」
 問「無自覚の霊魂でも、こちらで呼べば霊媒にかかってくるのはどういう理由か?」
 答「それは産土(うぶすな)系統の神さまがお世話をなさるからだそうです。そんな場合にはいつも産土系が世話を焼いてくれます。」
 問「お前が現在行なっているような幽明交通と、いわゆる悪霊の憑依ということの間には、何等か根本的な相違があるのか。一つしっかり調べてくれないか?」
 答「お爺さんに聞いて見ましたが、両者の間に根本的の相違はないようで、悪霊の憑依というのは、要するに有害な観念の波動が、強く相手の身体に感應するだけらしいです。」
 問「前にも幾度も聞いたが、幽界における身体の感じをもう一度聞かせてくれないか?呼吸や脈拍はあるかな?」
 答「そんなものはてんで気がつきませんね。内臓などもあるのか無いのかわかりません……。」
 問「地面を踏む感じは?」
 答「自分の部屋に居る間は、歩くという感じがないでもありませんが、地上の歩行とは大分違います。歩くといっても何やら軽い、柔かい気持です。また足音というものもしません。遠距離に行く時には、一気呵成に行ってしまうので、なおさら歩くという観念が起こりませんね……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 54-59(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 あの世へ行っても、生前の記憶や思い出は「却ってはっきり」残っているようで、新樹氏は、長崎高商の学生の頃が「一番面白かった」と追憶しています。ふと海に入りたいなと思うと、もうきれいな海岸に来ている。泳いでみると海水浴の気分にはなるが、いくら泳いでも疲れないというようなことなども、私たちが聞き知ってきた霊界生活の一部を新樹氏が実践して示してくれているようです。

 死後も生命は生き続けることを信じない人は多くいますが、そういう人たちがあの世へ行ったらどうなるか。和三郎先生に言われてその実情を見てきた新樹氏が「陰惨」と報告しているのには納得させられます。「自覚する、しないは本人の心掛け次第で、他からはいかんとも為し難い」という守護霊のことばがありますが、これは、この世に生きている人々についてもいえることかもしれません。(2013.10.25)

  18. (九) 再生問題その他 (その2)

 問「幼少で死んだものが幽界でどんな生活をしているか、ひとつその実況を見てきてくれないか?」
 答「承知しました。ひとつお爺さんに頼んでみましょう。――(5, 6分の後)只今見せてもらいました。赤ん坊でも、小さいながら、われわれと同様、修行させられて、心も姿も発達するのですね。地上の子供のように迅速ではありませんが、矢張り、あのような具合に大きくなるのですね。僕の行った所では、50歳位の婦人たちが2, 3人居て、その人たちが子供たちの世話をしていました。子供の人数ですか――人数は5, 6人で、3歳から4, 5歳位の男の子と女の子が一緒にいました。抱かれたり、何かしている様子は現世と少しも変わりません。場所はあっさりした家の内部ですが、どうもこちらの家屋は、どれもみな軽そうに見えます。ずっしりとした重そうな趣がなく、何やら芝居の道具のような感じがしますね。僕はお爺さんに向かって、この子供たちが学校へ行く年齢になればどうなるのか、と尋ねてみましたら、お爺さんは早速僕を学校のような場所へ連れて行って見学させてくれました。一学級の生徒は20人位で、やはりここでも男女共学の教育をしていました……。」
 問「他にもクラスがいくつもあるのだね?」
 答「いろいろのクラスに分れています。何を標準として学級を分けるのかというと、それは受持の教師のする事で、主として子供が死ぬ時に、因縁によって導いてくれた神とか仏とかに相談して、充分に調査の上で実行するらしいのです。もっとも宗教的区別などはある程度までの話で、上の方に進めばそんな区別は全く消滅するそうです。」
 問「科目はどんなふうに分れているか?」
 答「現世とは大分違いますね。算術などは全く不必要で、その他、地理も歴史もありません。幽界で一ばん重きをおくのは矢張り精神統一で、これをやると何でもわかってくるのです。音楽だの文芸といったようなものも、子供の天分次第でわけなく進歩するようです。学問というよりもむしろ趣味になるでしょう。趣味があればいくらでも進歩しますが、趣味がなければまるきり駄目です。ですから子供たちは一室に集まっていながら、彼らが学んでいる科目はそれぞれに違います。」
 問「生徒たちの服装は?」
 答「皆まちまちで一定していません。帽子などもかぶっていませんでした。」
 問「書物だの、黒板だのもあるか?」
 答「皆ひと通り揃っています。子供が質問すれば教師はそれに応じて話をするらしく見えます。」
 問「教師はどんな人物だったか?」
 答「30歳前後の若い男でした。お爺さんに聞いてみると、この人は生前に子供を持たなかった人だそうです。つまり生前に子供の世話をしなかった埋合わせに、幽界で教員をやりたいう当人の希望が、神界から聴き届けられたわけなんだそうです。で、僕なんかもその部類に属しはしませんか、と試みにお爺さんに聞いてみたら、お爺さんはただ、そうだなあ、と言っていました……。」
 問「話しは少し後戻りするが、赤ん坊が死んだ時にはどういう具合でいるものなのか、ひとつ世話役の婦人にでも聞いて貰えまいか?」
 答「承知しました。――女の人はこう答えています。赤ん坊は少しも浮世の波にもまれず、従って何等の罪も作らずに現世を去ったのであるから、神さまのほうでも、ごく穏やかに幽界に引き取ってくださる。つまり現界から幽界への移りかわりがなだらかで、そこに死の苦痛も悲みもなく、殆んど境遇の変化を知らずに、すらすらと生長を続けるのだという話です。長く地上に生きておれば、自分ではその気がなくても、知らずしらずに罪をつくりますが、赤ん坊にはそれがありません。赤ん坊が楽なのは当然だと僕も思いますね。へたに中年で死ぬより赤ん坊で死んだほうが幸福かも知れない……。」
 問「赤ん坊は乳を飲みたがりはしないか?」
 答「最初は保母が乳房をふくませるそうです。もつとも、乳が出るわけではなく、また乳を飲む必要もない生活なので、子供のほうでもだんだんその欲望がなくなってくるそうです……」
 問「幽界の子供の発育が遅いのは何故だらう?」
 答「子供の発達には矢張り現世の生活の方が適当なのでしょうね。幽界でも生長することはしますが、現世にくらべるとずっと遅いということです……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 59-62(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは、一学級20人くらいの、あの世の学校のことを、いろいろと新樹氏が伝えてくれています。男女共学のクラス分けは受け持ちの教員が行っていて、書物や黒板なども一応揃っているようですが、教科についてはやはり現世とは大分違っていて、ここでも精神統一の訓練の重要性が述べられています。30歳前後の若い男性が教師を志望して神界から聞き届けられた、というのもたいへん興味深く思われます。

 ここで使われている「幽界」ということばは、「あの世」の漢語的表現で、現在ではあの世は一般に「霊界」といわれていると思います。和三郎先生も、界層的には、この世の「現界」に一番近いのが「幽界」で、それから「霊界」になり、その上が「神界」というように分けておられますが、コナン・ドイルは、この三つの界層をさらにそれぞれ三つに細分化してそのイラストを霊界から送ってきたことがあります。[The Return of Arthur Conan Doyle] (2013.11.01)

  19. 新樹の通信 ―第2編―

    目 次

  新樹とその守護霊
  乃木さんと語る
    (1) 彼岸の調査
    (2) 新樹の訪問
    (3) 新樹を中継として
    (4) 一問一答
    (5) お宮とお墓
    (6) 日本国民に告ぐ
  幽界居住者の伊勢神宮
    (1) 最初の参拝
    (2) 再度の参拝
    (3) 乃木さんと同行
  或る日の竜宮

 現代文訳者(注)

 『新樹の通信』は、第1篇、第2編、第3篇の構成になっています。第2編の本文は20から始まります。

 20.  新樹とその守護霊(その1)

 私が新樹に向かい、彼の本来の守護霊について初めて問いを発したのは、彼と私の間に通信の途が開けてから、まだいくらも経たない昭和4年7月22日のことでした。

 問「お前にも、きっと守護霊がついている筈だが……。つまりお前を指導してくださる後見人みたいな方が……。」
 答「つ……ついています……。」 当時は通信がまだ不完全で、やっと言葉がつながり出した時でした。「5……5人ついています。」
 問「5人……大へん大勢ついているのだね……。いったい一人に守護霊が、そんなに大勢ついているものだろうか……。」
 私がちょっと不審の眉をひそめて、独り言のようにそんなことを申しました。その時新樹からは、何とも答がありませんでしたが、ただ妻の霊眼には、漢字で「五」の字が極めて鮮明に映りました。

 越えて7月25日にも、私は新樹に向かって、同じく守護霊問題を持ち出しました。その時の返答で、現在彼についている5名の守護霊は、死後、産土神から特につけられた臨時の指導者であり、彼の本来の守護霊ではないことが明らかになりました。
 「自分の守護霊のことを聞かれると、僕はなんだか悲しくなるから、その話はしばらく止めてください……。」 新樹はそう言って、これに関する談話を避けるのでした。
 そう言われては私も無理に問い詰めることもならず、いつも奥歯にものの挟まったような気持で、とうとう約1年間も、この問題を未解決のまま打ち棄てておきました。
 そうするうちに、どうしても彼の守護霊を突きとめなければ、収まりがつかないことが、少しずつ起こってきました。とりわけ私に、あくまでもこの問題を追及させる決心を起こさせたのは、昭和5年6月14日の夜、「東京心霊科学協会」の事務室で行われた亀井霊媒の交霊会に、新樹の顔が現われたことでした。それはあまり鮮明な物質化現象ではありませんでしたが、しかし亀井霊媒の頭上約一尺ほどの辺りに、髣髴として現われたのは、まさしく新樹の生前の顔に相違ありませんでした。それは私自身よりも、むしろ立合人中の二、三人が承認するところでした。

 で、その翌日、私は早速、新樹を妻の体に呼びだして、その事実の有無を確かめました。ところが意外にも、新樹は断乎としてその事実を否定しました。――
 「僕、亀井という男の交霊会などに、ただの一度も出現した覚えはありません。僕はお母さんの体以外には、絶対にかからないことにしています……。」
 これを聞いて、私は少なからず疑惑にとざされました。あれが新樹の仕業でないとすれば、一体誰がそんな真似をしたのか? 亀井霊媒の背後に働いている、印度人モゴールの悪戯か? それとも新樹の背後に控えて、彼の行動を助けている 5人の指導者達の仕業か? それとも又彼の本来の守護霊の所作か?
 私は直ちに、あらん限りの手段を講じて、その詮索にあたりました。ここで一々その手続きを述べることは、あまりにも煩瑣にわたるおそれがありますから、省いておきますが、とにかく私が最後に到達した見込みは、どうあっても、それは新樹の本来の守護霊の仕業に相違あるまいということでした。
 「これはどうしても、新樹の守護霊を呼び出して、聞いてみなければならない」と私は躍起になりました。
 「新樹は、守護霊の話を持ち出すと、悲しくなると言って、なるべく避ける気味だが、彼も幽界へ入つてからすでに1年以上になる。いつまでもそんな感傷気分にひたつているべきでもあるまい。よし取りあえず、妻の守護霊に頼んで、ひとつ新樹の守護霊に逢って貰ってみよう……。」

 そこで7月2日の夜、私は妻の守護霊を招いてこのことを述べると、先方は案外気軽に、私の注文を引き受けてくれました。――
 「承知いたしました。早速これから新樹の守護霊に会って、いろいろ訊いてみることにしましょう。仔細はいずれ後ほどお知らせします。」
 約10分間ほど経過すると、妻の守護霊は再び戻って来て、いかにも満足そうに、その会見の次第を報告するのでした。――
 「やはりあなたのお見込みどおり、新樹に代わって、これまでいろいろのことをしたのは、守護霊の仕業だったそうでございます。これまであの方は、仔細あって裏面に隠れ、わざと新樹にも合わずにいましたが、時節がきたので、今後は直接新樹の世話をすると申して居ります……。」
 一体その守護霊という方は、どんな方ですか?」と私は少し急き込み気味に訊ねました。やはり人霊ですか?」
 「なかなか立派な、気性の優しい方でございますよ……。もちろん元は私達と同じく人間でございます。しかし私などより、ずっと後の時代の方で、生れた時の年号はたしか享保、とか申すそうでございます。あの方の経歴について、私もひと通りのことは聞いて存じておりますが、私から申し上げたのでは面白くございません。どうぞ直接ご本人をお呼び出しになってお聞きくださいませ……。」
 「むろん妻の体にかかれるのでしょうね?」
 「それはかかれます。しかしご本人は、まだ一度も人間の体にかかって通信したことがないので、少々心配だと申しております。まあやってご覧なさいませ。」
 「新樹は守護霊のことを言われるのが、何やらつらいようなことを申しておりましたが、別に差し支えはないでしょうね。何ならあなたから、一言新樹によく言いきかせておいていただきたいのですが……。」
 「よろしゅうございます。なに時節が来たのですから、もう心配はございません。これからあの子は、だんだん自分の本当の守護霊と一緒になって、働くことになるでしょう。」
 「時に」、と私は一考して、「現世に居た時の守護霊の姓名は、何というのでしょうね? 呼び出すときに姓名が判っていないと、何やら勝手が悪いのですが……。」
 「姓名でございますか……。承知いたしました。しかし言葉で言ったのでは、もしも間違うといけませんから、この女の眼に見せておくことにしましょう……。」
 そう言ってから、ものの1分とも過ぎない時に、妻の閉じた眼の裏には、白地に極めてくっきりと黒く浮き上がって、
 「佐伯信光」
 という4文字が現われたのでした。

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 1-6(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏の守護霊が5人もついていることに和三郎先生が不審をもちますと、多慶子夫人の霊眼に、漢字で「五」の字が極めて鮮明に映しだされたというのは、興味深く思われます。これらの守護霊は、いわば臨時の指導者で、多慶子夫人の守護霊(子桜姫)に頼んで本来の守護霊に逢ってもらったというのには感嘆させられます。

 小桜姫は和三郎先生から依頼されると、10分ほどで新樹氏の本来の守護霊と逢ってきて、その人となりなどを伝えていますが、霊界通信も、条件が揃えば、そんなことまでも可能であることを教えてくれています。現世に居た時の守護霊の姓名が「佐伯信光」で、それを多慶子夫人の閉じた眼の裏に、白地に黒く浮き上がらせたというのは、まさに神業というべきでしょうか。(2013.11.08)

  21. 新樹とその守護霊 (その2)

 私がいよいよ新樹の守護霊を呼び出したのは、それから数日を過ぎた7月8日の午前でした。つぎにその日の問答を、ありのままに記述することにいたします。

 問「あなたのお名前は……。あなたは新樹の守護霊さんですか?」
 例の如く私は潮時をみて、そう切り出しました。
 答「わたくしは……わたくしは……わたくしは……」
 先方は非常に興奮の模様で、数回同一文句を繰り返しました。
 唾液が喉につかえて、うまく口がきけない様子でした。それでもようやく、
 「わたくしは……佐伯信光……と申すものでございます。」
 問「いや、よくおかかりくださいました。あなた様が新樹の守護霊さんだったことは、近頃ようやく承知いたしました。あの子の肉身の父として、厚くお礼を申上げます。― いろいろとお訊きしたいと思うことがございまして、今回お呼び立ていたしましたが、何卒お差支えない限りは、ご通信を願いたいもので……。」
 答「承知いたしました。が、何分にも私はまだ弱輩の身で、果たして充分の通信をお送りすることができますかどうか、いささか心懸りでございます。新樹の守護霊といたしましても、こんな未熟のものでございますから、甚だ力量が不足勝ちで……最愛のお子さまを、ああいうことに致しまして、私としましても、まことに面目次第もないことでございまして……。」
 この間、涙声になって、言葉がしばらくしどろもどろになりましたが、やっと気を取り直したふうで、
 「しかし、これもどうぞ定まった天命とお思いになり、お諦めをお願いいたします。私も同様に、早くこの世を去りましたもので、従ってさしたる修行を積んだものではございません。しかし今後は、充分新樹を助けて、活動をいたしまして、ご研究のお手伝いをし、せめてもの埋め合わせを致したく考えております」
 問「それでは早速伺いますが、一体あなたは、どちらのお方で、またいつ頃の時代にお生れでしたか?」
 答「私は名古屋の藩士で……。身分は大したものでもございません。生れた年は、たしか享保5年と記憶しますが……。一体こちらでは、年代などは一向用事のないもので、従ってそれ等の記憶は、だんだん薄らいでまいりますが、たしか享保5年であったと存じます。そして死没いたしましたのが寛延元年、私が29歳の時でございます……。」
 問「あなたはその間、ずっと名古屋にお住いでしたか?」
 答「いや、名古屋に居住致しましたのは23歳の時まででございます。元来私は幼少の時から、少しばかり文学を好みまして、最初は文学で身を立てんと致しましたが、そのうちだんだんと音楽の趣味が加わり、むしろそちらの方面で身を立てようと心得まして、それには名古屋では、思う通りの師にも就けませんにより、江戸へ上ったような次第でございました。」
 問「音楽はどんな種類のものをおやりなされたか?」
 答「笛でございます。江戸へ行ってからは、その道のすぐれた師につき、いろいろ苦心を重ねましたが、お恥かしいことには、音楽者として充分上達もせぬ中に、空しく早世してしまい、私としても、残念至極に存じました。で、新樹の守護霊を命じられた時には、あの子を音楽の方で身を立てさせようかとも、一時は考えたこともございますが、どうもあの子は、私ほど音楽が好きではございませんでした。また、時代も時代でございますから、とうとう断念して、あまり音楽を勧めないことにしました。それでも私の感化で、多少は音楽が好きであったように見受けました……。」
 問「あの子の音楽趣味は、あなたの感化だったのですか。」
 と私もいささかびっくりして叫びました。
 「新樹はもともと多趣味の男で、文学も好き、絵画も好き、運動も好きという按配でしたが、わけても絵画に対しては、ちょっと素人離れのする位の理解と趣味とをもち、殊にハーモニカの吹奏は、手に入っていました。守護霊と本人との関係は、そんなにも密接なものと見えますね」
 答「左様でござりまする。人間の性格趣味の約七割位は、その人の背後に控えている守護霊の感化でござりまする。で、新樹という人物は、よほどの程度まで私に似ておりましたが、ただあの子の方が、体格ははるかに私よりも優れていたように思いました。あの子が、よもやあのように早世しようとは、夢にも思いませんでござりました・・・・・。」
 問「するとあなたにも、当人の死はやはりおわかりになりませんでしたか?」
 答「死ということは、われわれ守護霊にも、その間際まで教えられないのが通例でございます。ずっと上の方の神さまにはおわかりになっていられるでございましょうが、われわれの境涯では、とてもわかるものでございません……。」

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 6-10(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 和三郎先生が新樹氏の本来の守護霊である佐伯信光氏との初めての会話で、「あの子の肉身の父として厚くお礼を申上げます」などと挨拶されているのには感動を覚えます。人間の性格や趣味の7割くらいは、守護霊の影響で、笛を学んでいた佐伯信光氏が新樹氏を一時は、音楽の方で身を立てさせようかとも考えたこともあったと述懐していますが、おそらく私たちも同じように、守護霊の影響を受けながらこの世に生きているのでしょう。

 新樹氏の早世は、守護霊の領域を超えた問題で、守護霊でも、死の間際まで教えられないのが通例であると述べられています。佐伯信光氏が守護霊としての責任を感じて、「最愛のお子さまを、ああいうことに致しまして」まことに面目次第もないとお詫びしていますが、死というのはやはり、「ずっと上の方の神さま」だけが決めておられる問題であることを、ここでも教えられています。(2013.11.15)

  22. 新樹とその守護霊 (その3)

 問「いや、話題が大分とんでもない方面へ飛びました。後へ戻って、少しあなたのご経歴を伺わせてください。――あなたはただ音楽の修行をなされただけで、どちらにも仕官というようなことはなさらなかったのですか?」
 答「いや、未熟ながらも、その道で将軍家に仕えました。」
 間「ご家庭は作られましたか?」
 答「生涯に一度も妻帯は致しません。」
 問「あなたの父母兄弟は?」
 答「私の両親は早く亡くなりましたので、私は幼時の頃から、親戚の手で育ちました。兄弟は三人、一番上が姉、その次が兄、その兄が家督を継ぎました。私は三番目の末子でございました。」
 問「あなたの信仰は?」
 答「私の家では代々神道でありましたため、私も神さまを信仰いたしておりましたが、別にこれぞという深い理解をもっていたわけではございません……。」
 問「あなた方の時代の学問は?」
 答「主に漢学でございます。それに少しばかり国学の方を加えた位のもので……。全体、私はあまり体が丈夫な方でございませんので、充分身を入れて螢雪の苦を積むというほどの修行は致しませんでした。」
 問「あなたはどんな病気でお亡くなりになられましたか?」
 答「平常から私は心臓が弱かったので、別に床に就いて寝るようなこともありませんでしたが、どうも他の方々のように、活発に働くことができなかったのです。私の命取りの病気も、結局その心臓でした。が、その当時私は急死したらしく、少しもその際の記憶が残っておりません。どのくらい経って正気がついたものか、私にはとんとわかっておりません。初めて幽界で気がつきました時は、丁度夜が明けて、眼が覚めたのではないかと思いました。」
 問「どうして死んだという自覚ができましたか?」
 答「私の守護霊さま・・・・・その方はいつも40くらいの年輩にお見受けされる方でありますが、その方がいろいろ私の面倒を見てくださいましたので、すぐに自分は死んで、異った世界に来たのだな、ということがわかりました…‥。」
 間「その後幽界に於けるあなたのご修行はどんなものです?」
 答「わからんことがありますると、みなその守護霊さまに伺います。こちらで一番の難問題は、やはり執着を棄てることでございます。私としても随分つらい、悲しいことがございましたが、一生懸命に修行によって、それを忘れるように努め、只今では少しは汚ない念慮が失せてまいりました。これでも人の守護霊となりますのには、よほど心をしっかりともって、向上の心掛けがないとなりませんもので……。」
 問「それは大きに左様でしょう。――あなたはそちらでどんな住宅にお住みになられています?」
 答「こちらの住宅というものは、御承知の通り、本人の性情に合ったものでございます。で、私の住宅はやはり笛の響きがうまく立つような、天井の高い作りで、……別に装飾などの必要はありませんが、ただ天井が高くて、部屋も相当広くないと、響きが立ちませんので、その点だけは充分注意して造られております。私には山水の景色だの、贅沢な装飾だのというものは少しも用事がございません。その点新樹の住宅と同様で、ただ私の住宅の方が、ずっと広々としております……。」
 問「そうすると、あなたは幽界へ行かれてからも、盛んに笛をお吹きなさるか?」
 答「時々は一心不乱に笛を吹くこともございますが、ふとした調子で、全くやらなくなることもございます。こんな道楽ばかりしていてはならないというような気がしまして、しばらくは全く笛などはなきものにしまして、静坐して精神統一の修行に浸るのです。それを致しませんと、決して向上ができませんので……。」
 問「一体あなたは、新樹の幾歳の時から守護霊になられましたか?」
 答「あの子が6歳か7歳かの時と思います。」
 間「なぁーるほど!」と、私は思わず感歎の声を放ちました。
 「考えてみると、あの子の幼少の頃はかなり乱暴な、どちらかというと、軍人向きの性質のようにみえました。ところが、だんだん生長するにつれて、だんだん優しい気性になり、後には絵だの、音楽だのの好きな優男になりました。矢張りあなたの性格趣味が感應していったのでしょうね。」
 答「あるいはそうかもしれません……。前にも申上げました通り、守護霊の感化は、普通六割にも七割にも達するものでございますから……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp. 10-13(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏の守護霊である佐伯信光氏に対して、和三郎先生がその経歴をいろいろと訊ねていますが、家庭環境、就職、信仰、学問、死亡原因等に至るまで、自然な日本語でこれほどまでに詳細な返事を引き出していることには、やはり驚嘆させられます。佐伯氏が現世に存在していて、和三郎先生と電話で親しく話し合っているかのような錯覚をさえ覚えるくらいです。

 事実は、住んでいる次元も時代も違うわけで、そのことの認識が薄れないようにするためにも 「しばらくは全く笛などはなきものにしまして」というような守護霊の古い言葉遣いは、そのまま残しておくことにしました。佐伯氏は新樹氏が6歳か7歳の時に守護霊になったと言っていますが、そのことに納得して和三郎先生が感嘆の声をあげているのは注目に値すると思います。(2013.11.22)

  23.  新樹とその守護霊 (その4)

 ここに至って私は、いよいよ日頃心にかかっていた疑惑の中心に触れた質問に取りかかりました。――

 問「さて折入って一つお訊ねしたいのですが、これまで新樹の知らぬことで、蔭からあなたがその代理をつとめられたことがおありですか?」
 答「はい」と守護霊は低い、しかしきっぱりとした語調で、「時々は左様な場合もないではございませぬ。」
 問「第一に、新樹が死んだ当日のあの知らせ――悲しい電報が着く約3時間以前に、大きな火の球が、鶴見の自宅の棟に現われましたが、あれはあなたのお仕業ですか?」
 答「はい、あれは私が致しました。本人にはまだ何の働きもありませんから、ああした場合には、大抵その守護霊が代理をつとめるのでございます。」
 問「それから昨年の3月5日、大連で告別式を営みました際に、洋服をつけた新樹の姿が現われて、脱帽して一々会衆に挨拶するのが、一二の霊視能力者の眼に映じました。あれもあなたのお仕業ですか?」
 答「はい、あれも私が致しました。新樹は大へんよく勤めた子で、上役の方からも、また同僚の方からも非常に信用され、心からその夭折を惜まれました。そのために、その告別式に於いて何の兆もなく、そのまま平凡に終わったとありましては、あまりにわたくしとして可哀想に感じましたので、新樹になりかわりまして、私がひと通りの挨拶をしたのでございます。」
 問「本年6月14日の夜、亀井という霊媒の交霊会を催した時、新樹の姿らしいものが現われましたが、あれは誰の仕業ですか?」
 答「あれも私の致しました事でございます。新樹は一途にただ母親のみにかかりたがっておりますので、印度人の方から出て貰いたいと頼みましても、それはあの子の方に響きません。私にはその事がよくわかって居りますので、代理で姿を現わすことに致しました。モゴールという印度人の頼みも、もともと別に悪意から出たのではなく、むしろ霊界の事を知らせるのには、甚だ有益なことと思われましたので、思い切ってあんな眞似も致しました。私からも早速、新樹にその次第を言いきかせておくことに致しましょう……。」
 問「いや、たいへん事情が明かになり、日頃の疑問が氷解したように感じます。してみると死の直前、直後、またその瞬聞等における死の予兆というものも、大部分は守護霊の働きと考えれば宜しいようで……。」
 答「全部そうだと申すことはできますまいが、その七八割乃至八九割は、守護霊の働きでございます。なお他の方々についても、充分お調べを願います。未熟者の私が申すことに、誤謬がないとは限りませぬから・・・・・・」
 問「最後にもう一つ私の問いにお答えを願います。――何故あなたは、これまで新樹から離れておられたのです?」
 答「それはこういう次第でございます。誰しも帰幽後しばらくの間は、少し厳しくしてやらなければ、なかなか執着が抜け兼ねるもので、それには本人の守護霊よりも、もう少し年代を経た、経験の多い方々が、指導される方が効果があがります。で、誰しも帰幽した当座は、その守護霊が蔭に隠れて、出て来ないのが普通であります。殊に私などは弱輩の身で、そこには必ず手落ちもあるだろうと思いまして、なるべく永く蔭にかくれて居ることに致しました。しかし、時節がまいりまして、いよいよかく名乗りをあげました以上は、最早逃げも隠れも致しませぬ。私の力量の及ぶ限り、お手伝いを致しますから、何卒ご遠慮なくお尋ねしていただきます。そうすることが、新樹の勉強になると同時に、また私の勉強にもなります。また私の力量に及ばぬことは、これまでの老巧な指導者達をはじめ、上級の方々にお尋ねしてお答え致します。いや、こちらの世界の事は、探れば探るほど奥が深く、ちょっとやそっとでは、とてもご返答はできかねるように感じます……。」

 この日の問答は、これで終わりましたが、時計を見ると、約2時間ばかりこの問答にかかっていました。(昭和5、8、31)

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 13-17(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏が急逝した折、大きな火の球が鶴見の自宅の棟に現われたのは、守護霊の仕業であったというのは興味深く思われます。子供のころ、それに似た経験が私にもありましたが、その頃の私には何かの錯覚であろうとしか考えられませんでした。ここでは、大連で告別式で洋服を着た新樹氏の姿が現われて、会衆に挨拶していたのも守護霊がしたことだと伝えられています。

 このような死の直前、直後、またその瞬聞等における死の予兆というものも、その七、八割乃至八、九割は、守護霊の働きであるというのは、たいへん貴重な情報だと思われます。誰しも帰幽後しばらくの間は、なかなか執着が抜けないので、それには本人の守護霊よりも、もう少し年代を経た、経験の多い方々が、指導にあたるというのにも、いろいろと教えられるような気がいたします。(2013.11.29)

  24.  乃木さんと語る (その1)

 (一) 彼岸の調査

 死後に於ける霊魂の存続、並に顕幽両界の交通― それがただ一片の理論であったのでは、一向面白くも可笑しくもない話で、大の男がこれに向かって、精魂を打ち込むだけの価値は殆んどないでしょう。で、私としては、一時も早くこの実際的方面の仕事を開拓したいと、年来熱誠をこめて来た訳ですが、それは漸く近頃に至って、平たくいうと、新樹の帰幽によって、いささか解決の曙光が見え出しました。丁度盲目の親が、子供に手を引かれて、とぼとぼと険路を辿るといった姿であります。
 新樹の帰幽が手がかりとなって、先ず動き出したのは彼の母の守護霊であり、次に出動したのは彼白身の守護霊でありました。お蔭で私の為には、そろそろ彼岸との交通機関が整いかけ、どうやら暗中模索の状態から脱することができました。時をおかずに、私は早速日本の霊魂界に向かって探求調査の歩をすすめました。古い所では、千年二千年前に帰幽した歴史上の人物との交通、新しい所では、10年20年前に現界を見棄てた近代人の霊魂との連絡、要するに殆んど八つ当たり式に、霊界の門戸を敲き始めたのであります。無論私でさえも、かくして獲たる通信全部が、全部信頼すべきものであるとは考えておりませんから、単に間接に、文書によって、これに接するだけの機会しか与えられていない一般世間の方々は、恐らく半信半疑の域を脱することが容易にできますまい。殊に近頃日本の出版界では、霊界通信などと銘打てる、眉唾式の偽作が続出しつつある有様ですから……。
 が、徒らに尻込みばかりしていたのでは、こうした新事業の開拓に、目鼻がつく見込みは到底ありませんから、私としてはいかなる疑惑、いかなる嘲笑をも甘受する覚悟で、片端から之を発表していこうかと考えています。現在の私は、幽界に於けるわが愛児の、精一杯の努力が、どこまで心霊研究に貢献しうるかを、ひたすら考えるだけで、その他に思いを及ぼす余裕などはないのであります。
 取りあえず私がここに紹介したいと思うのは、新樹を介して、乃木大将と会見を試みた状況であります。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 17-20(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 いろいろと本には伝えられていても、自分自身で死後の霊魂存続や霊界通信の可能性を証明することは容易ではありませんが、それを和三郎先生は、新樹氏の帰幽を契機にして、多慶子夫人の守護霊と新樹氏の守護霊からの協力により「暗中模索の状態から脱することができた」と書いています。その厳しい道のりが「丁度盲目の親が子供に手を引かれて」と表現されているのにはこころを打たれます。

 「霊界通信などと銘打てる眉唾式の偽作」が世に出回っている状況は、昔も今も変わりはないのでしょう。そのなかで、「いかなる疑惑、いかなる嘲笑をも甘受する党悟」で、新樹氏からの霊界通信を発表していこうと決意された先生のお蔭で、私たちはいま、このような稀有の霊界通信集を手にすることが出来ます。感謝の念を忘れずに、極めて貴重なこれらの霊界からのことばを、一語一語噛みしめていきたいと思います。(2013.12.06)

  25.  乃木さんと語る (その2)

  (二)新樹の訪問

 私が初めて新樹の守護霊(佐伯信光)に頼んで、乃木さんの近状を調べて貰ったのは昭和5年10月7日の午後でした。すると守護霊からの報告はこうでした。――
 「乃木という方は、もう幽界で立派に自覚して居られます。で、私がこの方と通信を試みるのは、いと易いことでございますが、近代の方との通信は、矢張り乃木さんを知っている新樹の方が、万事につけて好都合であります。私は年代が離れ過ぎているので、少しもその経歴を知らず、質問をするにも、至って勝手がよくない。むろん新樹が乃木さんを訪ねるにしても、私が側に控えて居るには居りますが……。」
 この答は至極道理だと考えられたので、私は佐伯さんに退いてもらい、その代りに新樹を呼び出し、早速乃木さん訪問を命じました。相変わらず幽界の交通は至って敏活で、約10分間後には、早くも新樹の報告に接することができました。新樹はいつもよりずっと緊張した、謹直な態度で語り始めました。――
 只今乃木さんに御目にかかって参りました。乃木さんはもう立派に自覚して居られます。生憎、僕も、生前直接に乃木さんの風貌に接したことは一度もありません。乃木さんが出征された時分に、僕は漸く生れた位のものですからね。従って僕の乃木さんに関する知識は、ただ書物で読んだり、人から聴いたりした位のところです。幸い僕は大連に住んで居ました関係から、乃木さんが畢生の心血をそそがれた旅順口附近の古戦場には、生前何回か行って見ました。そうそう、お父さんが洋行されるために大連に立寄られた時にも、御一緒にあの爾霊山高地に登りましたね・・・・・。僕はあの忠魂碑の前に立った時に、いつも四辺を見回して、さぞこの高地を奪取するのは困難であったろうと、往時の乃木さんを偲んだものです。で僕は、乃木さんに向かってこう切り出しました。――
 「私は浅野新樹と申す名もなき青年で、生前ただの一度も、あなたにお目にかかったことはございませんが、無論あなたの御名前は、子供の時分からよく存じて居ります。殊に大連に住んでいた因縁から、あなたの往年の御苦戦の次第は、つくづく腸にしみて居ります。至って弱輩の身ではありますが、共に幽界の住人としての誼を以てこれからは時々お訪ねさせて戴きます……。」
 僕がそう云うと乃木さんは大へんに歓ばれました。乃木さんは写真で見た通りのお顔で、頭髪も顎鬚も殆んど真っ白で、随分お爺さんですね。和服をつけて、甚だ寛いでは居られましたが、しかし風評のとおり、その態度は謹厳そのもので、甚だ言葉少なにして居られました。
 僕は先ず乃木さんに向かい、戦死したお子さん達の事について、御挨拶を述べました。御自分の子供のことですから、さすが乃木さんもちょっと御容子が変わりました。―― 
 「子供達は 陛下の為に戦死したので、可哀想ではあるが、他の死に方をしたのとは違って、別に心残りはない……。」
 口ではあくまで強いことをおっしゃっては居られました。たしか兄さんの名は勝典、弟の方は保典というのでしたね。全くお気の毒なことでした。だんだん伺ってみると、乃木さんという方は、生前から幾らか霊感のあった方のようでしたね。「子供達の戦死した時には、私にはそれがよく判って居た……。」そう言って居られました。
 それから僕は思い切って、乃木さんに訊ねてみました。――
 「どういう理由であなたは自殺をされました? 尊い生命を、何故あなたは強いてお棄てになられました?」
 僕がそう言っても、乃木さんは容易に返答をされませんでした。重ねて訊ねますと、漸くその重い唇がほころびました。
 「自分の自殺したについては、いろいろの理由がある。二人の子供を亡くしたのも一つの理由ではあるが、他にもっと重大な事情・・・・・つまり、陛下に対し奉りて、何とも申し訳がないと思うことがあったのじゃ。何よりもあの旅順口で、沢山の兵士を失ったこと、それが間断なく、私の魂にこびりついて居たのじゃ。そうする中に、陛下が急に御崩御になられ、私は急に世の中が厭になった……。」
 そう言われるのを聞いた時には、僕も悲しい気分になりました。
 「この方は立派な軍人だが、心の中は何と優しい方であろう。」――僕はしみじみとそう感じました。
 乃木さんは死んでも、まだ忠君愛国の念に充ちていて、よく、明治天皇の御霊の近くへ伺われるようですね……。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 20-23(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 和三郎先生が新樹氏の守護霊に頼んで、乃木さんの近況を調べてもらう、新樹氏に乃木さんとの面会を依頼したら、10分後にはもう乃木さんとの会見の模様が伝えられる、というように、自由自在にしかも瞬間的に連絡が取れていることに驚かされます。爾霊山の忠魂碑の前には、何年か前に、私も立ったことがありました。「山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」という乃木さんの漢詩が、いまも切実に思い出されます。

 乃木さんはなぜ自殺したのか。通常では決して聞くことのできないその理由を、新樹氏はこうして乃木さんご自身から聞き出しています。二人のお子さんを亡くした上、沢山の兵士を失ったことが間断なく魂にこびりついていたところへ明治天皇が崩御して、「急に世の中が厭になった」と、いうのは重く響く言葉です。自殺の判断は「動機による」ことをシルバー・バーチは述べていますが、乃木さんが霊界で「立派に自覚している」というのは、その辛い経験を「立派に乗り越えている」ということでしょうか。(2013.12.13)

  26.  乃木さんと語る (その3)

 (三) 新樹を中継として

 新樹の第1回の乃木さん訪問は、大体こんな簡単なものでした。もちろん私としては、他に訊ねたい事がまだ沢山ありますので、重ねて10月の9日午前10時、私は再び新樹を呼び出して、こう申しつけました。――

 「前回はお前一人の訪問であったが、今日はひとつ、父の代理として、乃木さんにこう取次いで貰いたい。――父は前年横須賀で、海軍の教官を勤めて居った浅野というものであるが、ある年、乃木さんが学習院長として、海軍機関学校の卒業式に臨まれた際に、一度お目にかかって居る。その後、故あって官職を辞し、爾来専ら心霊研究に志し、一意専心、幽明の交通を開く事に献身して居る。ついては差支えなき限り、こちらの問いに応じて幽界の状況なり、また感想なりを漏らして戴きたい。無論どなたのお言葉であっても、世間に公表するのには時期尚早と考えられる箇所は、厳秘にしておくだけの覚悟は、充分にもって居るつもりであるから、その点はどうぞお心安く思召して戴きたい……。」
 「承知致しました。」
 新樹はそう答えたきり、しばらく沈黙が続きましたが、やがて再び母の体に戻ってきて復命したのでした。――

 「早速お父さんの言葉を口伝えしました。乃木さんは大変に歓ばれまして、こういう御返答でありました。――」

 それは誠に結構なお仕事で、日本においてもそういう方面の研究が、真面目に着手されたというのは、近頃にない吉報である。自分は大日本帝国については、こちらへ来ても依然として心配して居る。いやむしろ、国家の事以外には、殆んど何事も考えて居ないといってよい。が、自分はまだ幽明間の通信という事については一度も試みたことがなく、どういう風にしてよいか、はっきり判って居ない。のみならず、目下は自分自身の修行に没頭して、それに忙しく、こちらの世界の研究も、一向まだできて居ない。その点はあらかじめお断りしておく。ともかくもできるだけの事は、御返事したい考えであるから、そちらで良きように何なりと質問して貰いたい……。

 「乃木さんは、今日はカーキ色……やや青味のあるカーキ色の軍服を着け、質素な肘掛椅子に腰かけて居られました。乃木さんの居られる周囲は、暗いような所ですが、不思議なことには、乃木さんの身辺は明るいのです。軍服の襟でも、顔の皺でも、皆ちゃーんと判ります。少々普通とは勝手が違って居ます。」

 早速乃木さんと私との間には、新樹を介して問答が交換されることになりました。ほんの一小部分を省き、次に問答のありのままを発表いたします。

   浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 24-26(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 和三郎先生は海軍機関学校の英語教授をしていた時に、来賓として卒業式に来ていた生前の乃木さんと会っていたようです。そのことを乃木さんに伝えてもらって、心霊研究のために協力をお願いしたところ、乃木さんは喜んで引き受けています。地上との交信などはそれまで一度も試みたことがないが、できるだけのことは返事したい、と乃木さんが答えている様子は、この地上での通信と何ら変わらないようです。

 その時の乃木さんがカーキ色の軍服を着ていたのは、生前の思いや生活習慣がまだ強く残っていたからでしょうか。周囲が暗いのに乃木さんの身辺が明るいというのは興味深く思われます。人間は身体と精神の状態を反映させて複雑な波動を出し、それがオーラになるといわれますが、これは乃木さんの霊が明るいオーラを出しているからかもしれません。そして、それは多分、乃木さんの霊格が高いことを意味するのでしょう。(2013.12.20)

  27. 乃木さんと語る (その4)

  (四) 一 問 一 答

 問「あなたが自殺されて、そちらの世界に目覚められる前後の状況を、なるべく詳しくお話して戴きたい。心霊学の研究の為にも、また心ある日本国民の考慮を促がす上からも、これは甚だ大切な資料と考えられますので……。」
 答「それにはいろいろの事情が・・・・・・(一語一句ぽつりぽつりと考えた口調で)自分は先帝陛下に対し奉りて、相済まぬと思うことも数々あり、――また二人の子供にも別れてしまい、しかも自分は現世に生きながらえて居ても、大して国家の御役に立たない老体となりましたので、――陛下の崩御を伺うと同時に、すっかり覚悟を決めましたが、――さてどういう風にしたらよいか、それにはいろいろと苦心を重ねました。まだなかなか病気が出るような模様もない身体であり、――いかな方法を以てこの世を去ろうか、その事はよくよく考えぬきました。――しかし日本帝国の軍人である以上、潔く自匁して相果てるのが本望であろうと、遂にそう覚悟を決めました。―― 一たん覚悟をきめた上は、後は非常に気持がさっぱりとしたもので、何の事はない、ただ一途に、あの世で先帝陛下にお目にかかり、また蔭ながら日本国を護らねばならぬと、そればかりを考えるようになりました。――自分の覚悟はくわしく静子にも話しました。すると静子の決心も自分と全く同一で、少しも後に生き残ろうという考えはなく、それでは私も御一緒にと、立派な決心をしてくれました。―― 二人の子供を亡くして居るので、世の中が厭になっていたせいもありましょう……。
 さて自匁の時期はいつにしたものかと、いろいろ考えましたが、陛下の御大葬を御見送りした上でなければ、早まった事になりますので、御見送りをしてからという事に決めました……。
 お見送りは自分達の住宅で致しました。それから後の事は、――いかに覚悟はして居たというものの、それはちょっとどうも、私にも話し兼ねる……。
 私は自刃するまでの事はよく知って居るが、その後の事は、しばらく何の記憶ももっておりません。ある期間、私は全く何等の自覚もなしに過ごしました……。
 やや正気づくようになってからも、何やら辺りが暗く、頭脳も朦朧として居て、依然とり留めたことは覚えていません。その中に、誰ともなく私の名を呼ぶものがあったので、はっと眼がさめました。辺りはまだ少し薄暗いが、気分は非常に爽快である。私はその時初めて、自匁してこんな所に来たのかしら、と気がつきました。これで、先帝陛下にも、お目にかかれるであろうと思うと、心の中は嬉しさに充ちました。――が、何を言うにもその当座は、ともすれば夢現の境に彷徨いがちで、ただじっと静かにして居た方が楽でありました……。」
 問「誰ともなくあなたのお名を呼んだと言われましたが、それはどんなお方でございましたか?」
 答「それは装束を附けた立派な方で、その方が私を呼び起してくれました。――私は自分の友達でもあろうかと思って、よく見ましたが、別に友達でもなく、また年齢も少しお若い方なので、これは神さんであろう、と気がつきました。誰でも死んでこの世界に入ると.必ず神さんが来てお世話をしてくださるものだそうで、その後の自分が、何かこうしてほしいと思うと、すぐにその願いが先方に届いて、良いようにしてくださるのじゃ……。」
 問「そのお方はあなたの本来の御守護霊でありますか? それとも、帰幽後一時あなたのお世話をなさる指導者の方でありますか?」
 答「さぁ、そこのところは、まだよく私にも判りません。何れよく取り調べた上で御返答いたしましょう。万一、間違ったことをお答えすると、世の中を誤まりますので……。」
 問「あなたはその後、神として祀られて居られますが、むろん現界からの祈願は、そちらに届いているでしょうね?」
 答「自分は見られる通り、つまらない人間であったにかかわらず、国民が挙って、自分を神に祀ってくだされ、自分としては、ひたすら恐懼して居る次第じゃが、神々の御守護により、及ばずながら、護国の神として大いに働く覚悟で居ります。ただし神社に祀られているといっても、私が常に神社に居るわけではない。神社に参拝者があれば、そちらの祈願が、よくこちらに通ずるだけのものであります。有り難い事には、自分に対して国家守護の祈願をしてくださる方が、近頃だんだん多い・・・・・・。」
 問「あなたには明治大帝の御後を慕われて、自刃されたのでありますが、その事について差支えなき限り、そちらの御模様をお漏らしくださいませんでしょうか?」
 答「畏れ多い事でありますが、――先帝陛下には、御崩御以来、まだ安らかにお眠り遊ばされておいでのように、あの装束を召された方から申しきかされて居ります。それで、自分は常に陛下の御霊のお側近くには伺候いたしますが、折角御やすみの砌を、われわれ風情のものが、無躾にお言葉をかけ参らせることも、あまりに畏れ多い次第と考え、なるべく差控えて居る次第で……。すべてこちらの模様は、現世で考えていたところとは、いささか趣を異にしているところがあるものじゃ……。」
 問「静子夫人、また戦死された勝典、保典のお二人には、そちらで、すでにお逢いになられましたか?」
 答「逢ったというわけではないが、静子とは音信を致して居ります。あれは私よりは少し遅れて眼が覚めた模様で、こちらで思うことも、またあちらで考えることも、みな互いによく通じます。女性のことだから、やはり子供の事など思っているようで……。二人の子供達は、まだ充分に眼がさめておらんと見えまして、これまでに一向通信をしておりません……。」
 問「あなたはお墓とお宮と、両方をお持ちになって居られる方であるから、是非お伺いしたいと思いますが、お宮とお墓とは、どこがどう違いますか? これは社会風教の上に、重大な関係がありますから、篤と御勘考の上にて御返答を願いたいと思います。」
 答「墓と宮とは、そりぁ大分わけが違います。――が、どの点が違うかと言われると、私も少々返答に困る……。次回までによく考えておくことにしましょう。――今日はこれだけにしておいてもらいたい。」

 その日の問答は、大体これで終わりました。この問答の間、新樹は乃木さんと私との中間に立って、非常によく仲介につとめ、乃木さんの言葉を取次ぐ時などは、ある程度まで、乃木さんの風格を髣髴せしめるほど、緊張し切って居ました。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 26-31(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

和三郎先生が新樹氏の守護霊である佐伯信光氏に頼んで乃木さんの消息を調べてもらったのが、昭和5年(1930年)10月7日のことでした。それから間もなく、乃木さんとの問答が始まっています。明治天皇の大葬が行われたのは明治45年(1912年)9月13日で、その日に乃木さんは自刃していますから、この問答の時には、乃木さんの死後約18年が経過していたことになります。乃木さんはこの時すでに「立派に自覚して」いましたが、戦死された二人のお子さんは、まだ「充分に眼がさめておらない」状況と伝えられています。

乃木さんの自刃は、当時からいろいろと賞賛と非難の両論を巻き起こしてきました。特に、静子夫人も一緒であったことは、「道ずれ」にしたと糾弾の的になっていたと思います。静子夫人は、なかなか死にきれずに苦しんだことが、検死の結果からもわかっていました。しかし、ここでは、乃木さん自身が、静子夫人について、「少しも後に生き残ろうという考えはなく、それでは私も御一緒にと、立派な決心をしてくれました。二人の子供を亡くして居るので、世の中が厭になっていたせいもありましょう」と述べていることが注目されます。(2013.12.27)

  28. 乃木さんと語る (その5)

 (五) お 宮 と お 墓

 前回に引き続き、まだいろいろ質問したいことがありましたので、私は重ねて10月15日午後8時半頃、新樹を呼び出し、乃木さんと私との間の中継役を命じました。何回も繰り返している中に、新樹もだんだんこうした仕事に興味をもってきたらしく、この日も大へんに歓び勇んで、この面倒な、同時に相当気骨の折れる任務についてくれたのでありました。――

 問「これは前回にもお尋ねしたことでありますが、お墓とお宮との区別について、あなたがそちらの世界で、実地に御覧になられるところを、忌憚なくお漏らしして戴きたい。どうも私の見る所によれば、現代の日本国民は、この点に関して頗る無定見……いやむしろ全然無知識に近く、甚だ辻褄の合わぬことを、一向平気でやりつつあるように考えられますが……。」
 答「それについては、先般あなたから訊ねられて、私もよく考えてみましたが、墓というものは、あれは人間界のみのもので、つまり遺骸を埋葬するしるしの場所であります。こちらの世界に墓というものは全然ない。またあるべき筋のものでもないと思います。然るにお宮は霊魂の通うところ……つまり顕幽間の交通事務所とでもいうべき性質のものであるから、それは人間の世界にあると同時に、またこちらの世界にもある。もっともこちらの世界のお宮というものは、ごく質素な、ほんの形ばかりのもので、とても人間の世界にみるような、あんな立派な建物ではありません。畏れ多いことであるが、伊勢神宮にしても、また明治神宮にしても、こちらのお宮は、何れももったいないほどご質素であります。」
 問「してみますと、人間がやたらに立派な墓を築くなどは、あれは一向詰らん事でございますな?」
 答「もちろん、私としてはそう思います。いかに立派な墓を築いてくれても、こちらに必要がなければ、一向につまらないものでな・・・・・。立派な墓は、ただ華美を好む現世の人達を歓ばせるだけのものであります。――といって、もちろん私は、全然墓を築くのが悪いというのではありません。遺族や友人が墓へ詣って、名でも呼んでくだされば、それは此方にも感じますから、死んだ人の目標として、質素な墓を築くことは、甚だ結構なことでありましょう。私はただ、あまりに華美なことをして貰いたくないというまでで……。」
 問「すでにお墓とお宮とが、そんな具合に相違したものであるとすれば、お宮詣りとお墓詣りとをごっちゃにすることは、いかがなものでしょう?」
 答「日本には、昔からその辺の区別が、立派についている筈じゃと思うが……。」
 問「ところが近頃、その区別が乱れてきているのではないかと考えられるのであります。近年大臣とか、大将とかいう歴々の人達は、何かの機会に、伊勢神宮へ参拝したついでに、よく桃山の御陵へお詣りをされるようです。これについて、乃木さんの腹蔵なき御意見を承りたいと思います。」
 答「桃山の御陵というのは、自分はもちろん少しも知りませぬが、こちらでほのかに承る所によれば、大分御立派なものじゃそうな。当局も国民一般の願望に動かされて、自然そうしたことになったであらうと思いますが、御陵というものは、畢竟御遺骸を葬った、ただのおしるしに過ぎないから、陛下の御神霊をお祀りした明治神宮とは、性質が全然違います。まして伊勢神宮と御一緒にすべき性質のものでないことは、もちろんの事であります。もしも日本の国民が、その点に関していささかも取り違えるようなことがあっては、甚だ面白くないことと思われますから、一つこの機会を以て、あなたから世間一般に知らせて戴きましょう。――こうした間違いの起るのも、つまりは神というものを本当に知っているものが、だんだん少くなった故でありましょう。私の生きている時分にも、精神作興とか、敬神崇祖とかいう言葉がよく使われたものでありますが、どうもとかく上滑りがして形式に流れ、深いところまで徹して居ぬ嫌いがあつたように思います。あなたの力で、これをもう少し何とかして戴きたい……。」
 問「私のような微力なものに、果してどれだけの効果をあげ得るか、甚だ心元なく感じますが、とにかくできるだけのことはする覚悟で居ります。乃木さんもどうかそちらの世界からお助けしていただきます。」
 答「いかにもそれは承知いたしました。しかし何分にも、まだ一向修行が足りない身であるし――それに自分は戦争の事やら何やらで、多くの兵士を殺し、人に合わせる顔がないので、なるべくは表面に引き出して貰いたくないのじゃが……。」

 この日の問答の主要なる部分は、大体上に掲げた通りでした。乃木さんのいつもながらの謙遜な態度は、一方ならず私を恐縮せしめ、「矢張り乃木さんは偉いものだ」と痛感した事でした。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 31-35(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 霊界にはお宮はあっても、お墓はない。だから、明治神宮にあたるものは、質素な形でありながら霊界にも存在するが、明治天皇の陵である伏見桃山陵に対応するものは霊界にはない、と述べられています。遺骸を埋葬するしるしの場所であるにすぎない地上の墓というものは、霊界においても、あまり重要視してはいないようです。

 伊勢神宮にお参りしたついでに、桃山御陵にも詣でるというのは、全く性質の違うものを一緒にしてしまっていることになって、「取り違えてはならない」間違いであると指摘されているのは興味深く思われます。乃木さんはまた、ここでも、戦争で「多くの兵士を殺し人に合わせる顔がない」と述べていますが、その辛い思いには、同情を禁じえません。(2014.01.03)

  29. 乃木さんと語る (その6)

 (六) 日本国民に告ぐ

 引き続いて私は、10月19日にも、新樹を通じて乃木さんと談話を交えました。この日私は「日本国民に告ぐ」という標題を提出して、これに対する乃木さんの回答を求めました。例によって乃木さんは、非常に謙遜で、容易に口を開こうとしませんでしたが、私から再三促がされて、やっと言葉を発せられたのでした。

 答「私はこちらの世界に引き移ってからも、非常に日本国のことは心配しております。――いや、国のこと以外には、殆ど何も知らぬといった方が通常かも知れません。そのお蔭か、自分には、いくらか日本国に今後起るべき事柄が、薄々わかっております。――しかし、それはまだはっきりと言うべき時期でもないし、また自分とても、霊界通信という仕事は一向不慣れであるから、心に思っていることを、全部そちらに通じることはできないようにも思います。で、私として目下言うべきことが甚だ少ないのは、致し方もない次第でありますが、ただ日本国民が、あまり太平の夢に慣れてはいけないとだけは、一言申し上げておきたいと思う。――自分としては、生前日露戦役において、旅順の包囲戦を引受け、もうああいう罪な仕事……つまり人殺しみたいな事は、二度と再びあっては困ると、心の底から懲り抜いております。いかに戦争の常とはいえ、沢山の兵士を亡くすれば、その人々の恨みは、自然こちらにめぐってきて、随分身を責められることになります。自分は実際二度と再び戦争などはしたくない。自分はその事を、始終神様にもお願いしている次第であります。が、やはりこれも時節というものか、どうしても、もう一度は免れない運命になっておりますようで……。自分としては、ほかに何も考えることはなく、ただ一途に日本の前途を案じているばかりでありますが、念力をこらせば、そんな事が少しはわかってきます。人間の世界の方では、どんな模様でありますな? いくらかそんな気配でもきざしてきましたかな? ――もちろん、前途に国難があると申したところで、それは決して今すぐというのではない。・・・・・毛頭慌てる必要はないのであります。またいざとなれば、自分も護国の神として、むげに引込んでばかりはおりませぬ。ただ日本国民として、この際何より肝要なのは、金鉄の覚悟であると思うのであります。日本という国は、たびたび外国と干戈を交え、悉くそれに勝利を占めているので、従って負けた国から、大へんに怨まれております。その事は幽界へ来てみてから、甚だ痛切にわかります。戦というものも、主としてこうした怨みから起ってくるもので……。こういうとあなた方は、すぐその相手は誰であるかとか、その時期は何時であるかとか、またその結果はどうであるかとか、はっきりしたことを聞きたいと思うのでありましょうが、それは私にもよくはわからん。幽冥の世界と、人間の世界とは、切っても切れぬ密接な関係で結ばれているものの、自ずとそこに区別がある。第一、時期などというものは、あれは人間の世界のもので、こちらの世界には、夜もなければ昼もなく、今年もなければ、明年もない。あるのは、せいぜいそれぞれの事件が運ばれていく順序くらいのものであります。高い神さまなら知らぬこと、自分などの境涯では、とても時期の放言などはできませぬ。同様に戦の継続期間などもよくわかりませぬ。――また人間にとって、そうした事柄は、実はどうでもよい。肝要なのは、只今申す通り覚悟一つじゃ。何時何事が起ろうとも、またそれがいかに困難であろうとも、あくまで神を信じ、あくまで君国の為に尽くす心でおりさえすれば、それで万事は立派に解決がつきます。くれぐれもあなたから、この旨を日本国民に伝えてください。私もこれから充分に修行を積み、決して国民の期待に背くようなことはせぬ覚悟でおります。いづれ詳しい事は、適当な時期を以てお伝えします。目下はまだちょっとその時期でないので……。」

 乃木さんは私の問いに応じて、まだ少々漏らされた事もありますが、今回はひとまずこの辺で打ち切ることに致します。(s5.11.17)

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 35-38(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 乃木さんは、霊界でも、非常に日本国のことを心配しているようです。「今後起るべき事柄が薄々わかって」いると述べています。そして、日本国民が「あまり太平の夢に慣れてはいけない」とも言っています。この通信が行われたのは1930年の10月ですが、その翌年の1931年9月には満州事変が起こっています。さらにその翌年の1932年には、日本は満州国建国を宣言し、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、日中戦争が始まりました。これは1941年に始まる太平洋戦争へと続いていきます。乃木さんにはこれらのことが「薄々わかって」いたのでしょうか。

 旅順の包囲戦のような「人殺しみたいな」戦争はもう二度と繰り返したくはない。それを始終神様にもお願いしていても、「やはりこれも時節というものか、どうしても、もう一度は免れない運命になっておりますようで」と述べられているのには考えさせられます。戦前の日本では、戦争をしても「絶対に負けない」ことが強調されていましたが、負けた国からは大変怨まれていることには思いが及びませんでした。幽界へ来てからその怨みが「甚だ痛切にわかります」という乃木さんのことばは、この地上で、相変わらず紛争や戦争を繰り返している私たちすべてが銘記すべきであろうと思われます。(2014.01.10)

  30. 幽界居住者の伊勢参宮

   (一) 最 初 の 参 拝

 手帳を繰りひろげてみると、私が初めて新樹に向って伊勢参宮の話を持ち出したのは、昭和4年8月12日のことでした。彼は私の言いつけに従って、早速幽界居住者としての、最初の伊勢神宮参拝を試みましたが、当時の彼としては、いささか荷が勝ち過ぎた嫌いがあり、その報告が委細をつくすところまでに達していない憾みがありました。記録のままを紹介すると、次の通りであります。――

 ただ今指導者のお爺さんに頼んで、伊勢神宮に参拝させて貰いました。道中は全然ヌキで、どこをどう通ったのか、少しもわかりませんが、とにかく御神苑のような所に出ました。僕は生前ただの一度も伊勢神宮へお参りしたことがないから、はっきりした比較ができませんが、とにかく絵に見た地上の伊勢神宮とは、大へんに様子が違っていますね。あたりはしんしんたる大木の杉の森で、その中に小さい白木のお宮がただ一つ、ポッンと建っているだけです。僕は何だか勝手が違ったような気がして、これが果して伊勢神宮かしら? と思っていると、お爺さんはすぐ僕の心を察して、こう言われました。
 「こちらの世界と、人間の世界とは違うのが当然だ。地上では人間の手が要るので、いろいろ付属の建物などもできているが、神界にその必要はない。神さまはちゃんとここに鎮まっておられるのだ……。」
 お爺さんがそう言われた瞬間に、丁度杉木立の茂みの中、お宮のずっと上方に、ひとりの女神・・・・・・お年はまず二十位に見える、世にも神々しい女神のお姿が、すーっと拝まれました。この神さまが、日本国をお守りくださる、一番上の神さまかと思うと、僕は自然に総身が引きしまって、思わずそこへ平伏してしまいました……。
 お爺さんの説明によると、天照大御神様は宇宙の活神さまで、人体に宿られたことはないお方だそうですね。従ってあのお姿も、仮のお姿だということですが、僕達にはまだ深いことはさっぱりわかりません……。

    浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 39-40(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏が満鉄病院で急死したのは昭和4年2月28日の夕方でした。それからわずか半年後の8月12日に、和三郎先生は新樹氏に伊勢神宮を参拝させています。この時はまだ、和三郎先生は新樹氏との通信を可能にするために懸命に努めておられた頃で、「霊界通信集」4 にもあるとおり、通信相手が間違いなく新樹氏であることを確認するために参拝の報告などをさせていたのでした。

 この部分は、その時の新樹氏の伊勢神宮参拝の模様を、改めてまとめたものです。新樹氏は、この後も何回か伊勢神宮参拝を繰り返すことになります。この最初の伊勢神宮参拝では、大木の杉の森の中にポツンと小さい白木のお宮が建っているだけの簡素な佇まいに新樹氏は驚いています。そこで、神々しい天照大御神のお姿が目に入って新樹氏が平伏していますが、興味深いのは、それが「仮のお姿」だというお爺さんの説明です。(2014.01.17)

  31. 幽界居住者の伊勢参宮

     (二)再 度 の 参 拝 (その1)

 この事があってから約9か月、昭和5年5月8日の夜に、私は再び新樹に向って、伊勢参拝を命じました。
 できるだけ報告の内容が、正確且つ豊富なることを期すべく、今回は新樹一人でなく、彼の母の守護霊・小櫻姫に頼んで、同行を求めました。その結果は果して良好で、前回に比べれば、その報告がよほど現実味に富んでいるように感じられます。双方からの報告がありますが、先ず新樹の方から紹介しましょう。――

 無事に参拝をすませてまいりました。今度はお母さんの守護霊さんに来てもらいました。守護霊さんは、今日は伊勢神宮にお詣りするのだからというので、白い装束を着ておられました。白い柔かい地質の着物で、腰の辺りをちょっと端折った道中姿です。袖ですか……袖は一向長くありません。丸味のついた短い袖で、そして足には例のように厚ぼったい草履を穿いておられました。
 僕は相変わらず洋服です……。僕は黒っぽい色は嫌いだから、薄色のものを着て行きました。ステッキは持ちません。
 先ず着いた所は、広々とした神苑の境内、純白の細かい小砂利が、一面に敷きつめてありました。僕達はしばらくそこを歩いて行きますと、やがて杉、松、その他の老木が、眼もはるかに立ち並んでいる所に出ました。
 守護霊さんが、「ちょっとこの辺で手を清めていくことにしましょう」と言われますので、あちこち捜しましたが、杉の木立のこんもりとした所に、あまり水量の多くない、一つの渓流がありました。現界の五十鈴川は、相当大きな流れだときいていましたが、どういうものか、こちらのは、そんなに大きい川ではありません。巾はやっと一間もありましょうか。しかし水はいかにもきれいです。僕達はその川で口や手を漱ぎました。
 「現界の五十鈴川は、この川に相当するのでしょうか?」
 そう僕が守護霊さんに訊ねますと、
 「さあどちらがどうなのでしょうかしら……。」
 守護霊さんにもその辺のところは不明でした。あの方も今日初めての参拝だったということです。
 それから爪先上りの坂路になり、僕達はそれをずーっと二人で上って行きました。すると間もなく、前面に白木のお宮が現われました。それが例の伊勢神宮、僕がお父さんに言いつかって一度参拝したことのある、あのお宮です。
 お宮は、今日はよほどよく念入りにしらべましたが、棟には矢張りあの千木とかいうものの付いた、だいたい地上のお宮そっくりのようです。その寸法ですか……。さあ正面の扉の所が目分量でざっと二間位のものでしょう。どうも僕は建築の事に暗いので、詳しい事はわかりかねます。お宮の周囲には、ぎっしり細かい砂利が敷きつめてありました。
 そこで僕は守護霊さんに言いました。――
 「こちらにお詣り致しましたからは、何卒天照大御神様の御姿を、ちょっとでも拝まして戴くよう、あなたからお願いしてください。」
 「承知いたしました。その通りに致しましょう。」
 守護霊さんは姿勢を整えて、少し首をさげて、瞑目して祈念をこめられました。僕もその通りにしました。
 しばらくすると、神様のお姿がお現われになりましたが、今日は前回とは違って、お宮の内部――そのずーっと奥の方です。
 「お出ましになられたから、早く拝むように・・・・・・。」
 守護霊さんから小声で注意がありましたが、そんな注意を受ける前に、僕はちゃーんと拝んでいました。綺麗といっては失礼かもしれませんが、全く綺麗な、そして気高い女神さんで、お体はあまり大きくないように拝しました。御服装は袖の長い・・・・・ちょうど平袖のような白衣をお召しになり、お腰の辺には、白い紐みたいなものを捲いて、前面で結んでおられました。御手には何も持ってはおられないようで、しかしお頸には、たしか頸飾のようなものを下げておられたようにお見受けしました……。
 僕はうれしいやら、有り難いやら、また恐れ多いやらで、胸がいっぱいでした。とても自分の勝手な祈願などの、できる心の余裕はありませんでしたよ・・・・・。
 厚く厚くお礼を申上げて、御神前を引き退りましたが、同時に神様の姿も、すーっとわからなくなりました。あたりはシーンとして、殆んどさびしいくらい、神々しさの極みというものはあんな境地を指すのかと僕は思いました。自分の体がなんだか、こう寒いような、変な気持ちでした……。
 守護霊さんは、何やらしばらく御祈念をこめておられましたが、何を祈念したのか、それはお父さんから直接にお訊きください。
 それから僕達は神苑内を出まして、別の道を通って戻ってきました。守護霊さんも一緒にお詣りができたと言って、大へんに喜んでくれました。僕も守護霊さんと一緒で、大へん力強く感じました。欲をいえば、僕が生前一度伊勢へお詣りをしていたら、比較ができて、大へん面白かったろうと思いましたが、今更どうにも仕方がありません。守護霊さんとは途中でお別れしました。
 「有難うございました」――そう言うと、もうそれっきりです。こちらの世界のやり方は、何事も甚だあっけないです・・・・・・。

    浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp. 39-45(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 昭和4年8月12日の最初の伊勢神宮参拝に続いて、昭和5年5月8日、第二回目の参拝の様子が新樹氏によって、このように伝えられています。しかも今回は、新樹氏一人ではなく、多慶子夫人の守護霊・小櫻姫が同行しています。参拝自体も大切であったでしょうが、このようにまでして、霊界通信の確立を図り、その信憑性を高めようとしている和三郎先生の熱意が感じられます。

 私は学生の時以来、伊勢神宮には何回か参拝に訪れたことがあります。確かに境内の五十鈴川の川幅はお手洗い場付近では十数メートルに狭まっていますが、それでも巾が「やっと一間くらい」の霊界の五十鈴川とは、趣が違うようです。昨年の9月に参拝した時には、新樹氏が天照大御神様の御姿を拝礼したという、本書のこの部分を思い出していました。私は霊界へ行ったら、またこの部分を思い出すことになるのかもしれません。(2014.01.24)

  32. 幽界居住者の伊勢参宮

     (二)再 度 の 参 拝 (その2)

 今度は入れ代って、同じ参拝についての小桜姫の報告を紹介しましょう。――

 今日は子供から、是非伊勢神宮にお詣りをしたいから御同行を願いたい、という通知でございましたので、早速その仕度をして出かけてまいりました。そういう尊いお宮に詣るのでございますから、できるだけ清浄な着物をつけて行くのがよいと考えまして、そのつもりで着替えをいたしました。
 子供には途中で逢いました。その時どんな打合わせしたとおっしゃるのですか……。別にこちらでは打合わせの必要はございません。子供に逢いたいと思えば、どこにおってもすぐ判りますので……。子供は今日も洋服を着ておりました。近頃は大へん私に馴れまして、遠慮せずに、よくいろいろの事を申します。
 「お宮に行ったら、どういう風にすればよいか」だの、「お宮までは、どの位の道のりがあるか」だのと、中には随分私などに返答のできない質問もいたしますので、少し困る時もございます。
 先方へ着いてみますと、それはきれいな、広々とした神園でございましてね……。別に現界のように、柵だの何だのという区切りはありません。ただ何となく神霊の気が漂っていると申すような気分の場所――それが伊勢神宮の境内なのでございます。
 私は生前に、どこにも参ったことがございません。なにしろ物騒な戦国時代の人間でございますから……。で、無論現界のお伊勢様も、ただ人の噂にきいただけで、いかにも残念なことに思っていましたが、今回図らずも、現界で叶えられなかった望みが、こちらで叶えられることになりまして、大へん有り難いことでございました。
 境内を歩いている時に、子供が申しますには、
 「現界には五十鈴川という大きな川があるが、こちらの世界にもそれがあるかしら……。」
 ――そんな事は、私も一向存じませんので、二人で散々さがしました。すると森の奥の方のさびしい所から流れ出る、きれいな川があるのです。で、子供にもそう申しまして、口も手も漱ぎました。その時子供が
 「いかにもきれいな水だから、飲んでもよいかしら……」と申しますから、
 「それは少しも差し支えないでしょう。御神水だからたんと戴きなさい」と答えておきました。
 お宮さんは大そう立派な、白木造りの神々しい御神殿でございました。その時子供が申しますには、
 「折角お詣りしながら、神様にお目にかからないのはあまりにも残念である。第一それではお父さんに報告をするのに、具合が悪いから、あなたから是非お願いしてもらいたい」というのです。
 そこで私が一生懸命になって、御祈願を籠めますと、すぐに神さまがお出ましになられました。これまでに、私は幾度もお姿の遥拝は致しておりますが、このように近々と拝みますのは、この時が初めてでございまして、何とも有り難いことに思いました。子供も拝ませて戴きましたから、詳しい事はそちらからおききになったでございましょう。私などには、天照大御神様の御本体はよくわかりかねますが、承わるところによれば、この神様は、日本では自国の御先祖の神さまとして崇められているものの、実は日本だけの神さまではなく、世界をお守りなさる、世にも並びなく尊い神さまだと申すことで、お姿も国々によって、いろいろに変えられると申すことでございます。私がこの神さまに、何を御祈願したとおききでございますか? ――私は一番先に、日本の国を御守護遊ばされるようにお祈り致しました。その次に子供のことをお願いしました。早く立派な心になり、早く進歩ができますようにと・・・・・。私の祈願はただそれだけでございました……。

  浅野和三郎『新樹の通信』 =第二編= 〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 45-47(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏の2回目の伊勢神宮参拝の様子を、同行をお願いした小桜姫からも報告してもらって、それをこうして新樹氏の報告と並べて記載している和三郎先生の霊界通信への熱意が伝わってくるようです。霊界の新樹氏や小桜姫と自由に交信しながら、一般には不可能と思われていることを現実に可能にしている大変な偉業であることに、私たちも深い感慨を抑えることができません。

 霊界の五十鈴川のきれいな水を、新樹氏が飲んでもいいかと小桜姫に聞いているのには興味をそそられます。お参りに際しての二人の服装などもかなり具体的に述べられていますから、そういう部分をすらすら読んでいますと、つい当たり前のように受け止めてしまいますが、改めて霊体の不思議さを考えざるを得ません。私たちは死んで初めて生きていることになるのだという、シルバー・バーチのことばなども思い出されます。(2014.01.31)

   33. 幽界居住者の伊勢参宮

      (三)乃木さんと同行

 新樹の第三度目の伊勢神宮参拝は、ほんの最近のもので、この時は乃木大将と同行しました。
 昭和6年正月元旦――この日は午後から雪で、年賀の客も杜絶え、いかにも落付きがよかったので、私は新樹を呼び出して、こんな事をいいつけたのであります。――
 「今日は元旦であるから、この際もう一度伊勢神宮参拝をやってもらいたいと思うが、それについては、今度は一つ、乃木さんをお誘いしてみてはくれまいか。是非御同行をお願いしたい――と言ったら、乃木さんはきつと承諾されるに相違ないと思うが……。」
 すると間もなく新樹からの返答があった。――
 早速乃木さんにその旨を通信しましたが、乃木さんは非常なお喜びで、こんな御返答を寄越されました。
 ――「私は生前は度々伊勢神宮へお詣りをしたものだが、こちらの世界へ来てからは、お詣りどころか、まだそんな気分にさえなれなかった。あんたは実に良い事を教えてくださった。そう言われてみれば、私も是非お詣りをしたくなった。自分の方がずっと先にこちらの世界に来ているのに、後の烏に先になられて、何とも面目ない次第である……。」
 そんな御返答なので、僕は早速乃木さんと御同行する事に話をきめました。ではこれから出かけてまいります……。

 それから約10分の後に、新樹から報告がありました。乃木さんという新顔が加わっているので、同じ参拝でも、よほど趣の異なった箇所がありますから、多少の重複を厭わず、そっくりそのまま載せることにします。――

 乃木さんという方は、平生からあんな謹厳な方でありますから、この度の伊勢神宮参拝ということについては、よほど心を引きしめて、ちゃんとして出掛けなければならないということになりまして、軍人ですから矢張り軍服……例の青味がかったカーキ色の服に、長剣をさげて行かれました。僕ですか……僕はいつもの通り、さっぱりした洋服です。
 道すがらも、乃木さんの控え目にされているのには、僕はとても恐縮してしまいました。どうしても乃木さんは、僕に先に立てと言われるのです。
 「私が先に亡くなったというても、こんなことはまた別じゃ。あなたの方から誘われたのじゃから、どうか案内してください。」
 僕はさまざまにお断りしたが、どうしても乃木さんは聞き入れてくださいません。仕方がないから、僕が先に立って案内役をつとめる事になりました。
 「伊勢神宮の模様は、以前と少しも変わりません。例の小砂利を敷きつめた境内、しんしんとした大木の森、白木造りのお宮……とても素的です。乃木さんはあたりを見回して、こう言われました。――
 「大分こりぁ模様が違う。現界のお宮も結構じゃが、こちらの世界のお宮はまた格別じゃ。何という御質素さ――何という神々しさであろう。私は近頃こんな結構な、すがすがしい気分に打たれたことがない。これにつけても、こちらの世界は矢張りこちらの世界だけのことがあると思う。敬神といっても、現界の敬神とはまたわけが違うようじゃ。」
 いかにも感激に堪えないといった面持でした。
 僕達はいよいよ御神前に達して礼拝をすましましたが、その時僕は乃木さんに言いました。――
 「あなたはここにお祀りしてある神様に、お目にかかられたことがおありですか?」
 「いや、まだそんな・・・・・・」と乃木さんは非常にたまげたご様子で、「自分などの境涯で、そんな事は思いもよらぬ事じゃと思うていたが……。それとも浅野さん、このお宮では、神様にお目にかかる事ができますか?」
 「いや実は僕も最初そんな事はできないものと考えていましたが、父から言われて、お宮の前でその事を念じましたら、すーっと神々しい女神のお姿がお現われになり、非常にびっくりしたことがあるのです。その後も一度、母の守護霊と同道で参拝して、お姿を拝みました。甚だ差出がましいようですが、折角ご同道したことですから、僕が一つ神さまにお出ましを願い、あなたにも拝見できるようお許しを願いましょう。」
 乃木さんはいよいよびっくりし、
 「そんな事ができるものなら、浅野さん、是非そうしてください。」
 そこで僕は御神前に額づいて、誠心こめて神さまに祈願しました。――
 「今日はこの方をお連れいたしましたから、度々のことで恐れ入りますが、何卒神様のお姿を拝ましてください……。」
 御所願を終えるか終えない中に、忽ちお宮の後方の一段高い所――前には立木の茂みの中でしたが、今日はそれとは違って、何もない虚空の一端に、いつもと同じく、白衣を召された女神のお姿がお出ましになりましたので、僕は乃木さんに
 「早く拝むように……」と通知しました。
 そうすると乃木さんは、はっとしてしまって、急いで、というよりもむしろ慌てて、低く低くお辞儀をしてしまいました。
 「乃木さん、拝みましたか?」僕は気にかかるので、下方を向いたまま訊ねますと、
 「拝みました……。何とも有難うございました・・・・・・。」
 という返答です。
 再び上を仰いだ時には、もう神様のお姿は消えていました。何分乃木さんの喜び方は非常なもので、「大へんに結構なことをさせて戴いた」と言って、涙を流して僕にお礼を言われます。僕は乃木さんに言いました。
 「僕にお礼なんか御無用です。幽界の居住者として、これしきの労をとるのは当然の事ですから……。今後も折があったら、またどこかへ御案内を致しましょう。また僕の知らないところは、どうか御指導をして下さるように……。」
 僕は乃木さんといろいろお約束をして、実に良い気持でお別れしました。乃木さんという方は、あんな老人で、生前地位の高かった方だから、僕を子供扱いにでもするかと思っていましたのに、かえって僕を先輩扱いにしてくれるので、僕は実に恐縮してしまいました。連れ立って歩いても、甚だ気持のよい方で、今後もあんな風の人と一緒に出掛けたら、面白いだろうと感じました・・・・・。」(昭和6年1月5日)

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 48-52(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏は乃木さんとこのように3回目の伊勢神宮参拝をしています。乃木さんは非常に喜んで同行を承諾し、新樹氏は和三郎先生に、「ではこれから出かけてまいります」と報告していました。それから、地上の時間で10分の後に、もうこのような参拝の際の状況が、乃木さんの軍服姿や、「大分こりぁ模様が違う」という乃木さんの印象などを含めて伝えられていることが興味深く思われます。

 そして、ここでは新樹氏が、乃木さんのために神様のお出ましをお願いしています。神様のお姿が拝めると聞かされて乃木さんは驚きました。「そんな事ができるものなら、浅野さん、是非そうしてください」と乃木さんは言っていましたが、おそらく半信半疑であったでしょう。しかし実際に白衣を召された女神のお姿を拝して低く低くお辞儀をしたあとは、「拝みました……何とも有難うございました」と涙を流して感激しています。その姿が眼に見えるようです。(2014.02.07)

  34. ある日の龍 宮 (その1)

 昭和6年の秋には満州事変が突発したため、幽明交通の機関も、ある程度そちらの方面に向けられましたが、しかし私の主なる研究題目は龍宮界であって、新樹は、彼の母の守護霊と共に、絶えずその仕事に使われました。
 初めての龍宮行は、9月22日の午後に行われました。新樹はその時の模様を、つぎのように通信してきております。――

 今日は突然お母さんの守護霊さんから通信がありまして、これからあなたも私と一緒に、龍宮界へ出かけるのです。いろいろあちらで調べることがある、と殆んど命令的な口振りなのです。僕はその権幕にいささかびっくりして、どうしたわけで、急にそんな話が持ち上ったのかと訊いてみますと、守護霊さんのおっしゃるには、これはあなたのお父さまからの御依頼です。龍宮というところは、いかに書物で調べても、他に尋ねてもどうしても腑に落ちない箇所が多くて困るから、是非子供を連れて行って、詳しく調べさせてくれとの御註文で、それで急に思い立ったのだ、というご返事なのです。僕は龍宮なんて、そんな所が果してあるか無いかも知らない位で、一向自信がありませんでしたが、守護霊さんがえらい意気込みなので、僕はおとなしくついて行くことにしました。間もなく守護霊さんは、僕の住居へ誘いにきてくれました。いつもの通り、足利時代の道中姿で、草履を穿いておられます。僕は例によって洋服です。……龍宮行きだからとて、洋服を着ていっていけないという理由も、別になかりそうに考えたからです。
 それにしも、龍宮探険とは随分振っていると、僕はいろいろ考えました。龍宮は一たい海の底の世界なのかしら……。子供の時分に読んだお伽噺には、確かにそう書いてあつたと思うけれど、もし海底だとすれば、どんな按配にそこへ潜り込むのかしら……。これは少々薄気味わるくもあるが、同時にまた面白い仕事でもある・・・・・。ことによると、大きな海亀が自分達を迎えに来るかもしれない……。僕は思案に余って、とうとう守護霊さんに龍宮はどんな所かと伺いを立てると、守護霊さんは軽くお笑いになって、あなたはいろいろの事を想像していられるが、黙ってついてお出でなさい。行ってみれば、どんな所かすぐわかります、と言って、一向くわしい説明をしてくださらない。僕の好奇心は自然に最高調に達したわけです。――先方についてからの見聞記は、僕よりも守護霊さんの方が詳しいかと思いますから、なるべく守護霊さんを呼び出して、一度その物語をきいてください。足りないところがあったら、僕が後で補充することにしましょう。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 53-55(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 「龍宮」というのは、私たちの理解では浦島太郎や乙姫様と結びついたお伽話の世界です。新樹氏も、お母さんの守護霊さんから「これからあなたも私と一緒に龍宮界へ出かけるのです」と言われた時には、さぞ驚いたことでしょう。でも、そんな所があるのかないのかもわからなかった新樹氏も、守護霊さんから龍宮へ行くことになった経緯を聞かされて、おとなしく付いていくことになりました。

 お伽話では、龍宮は海の底にあることになっていますから、新樹氏が、そこへどのようにして行くことができるのかと守護霊さんに訊いているのは、もっともな疑問です。しかし、守護霊さんは「行ってみれば、どんな所かすぐわかります」と言って、教えてはくれません。実際に龍宮へ着いてからの状況は、このあと、守護霊さんから詳しく報告されることになりますが、私たちも大いに関心を持って、その報告に耳を傾けたいと思います。(2014.02.14)

  35. ある日の龍 宮 (その2)

 折角新樹がそういうものですから、私は妻の守護霊を呼び出すことにしました。守護霊はいつもより気乗りのした調子で、元気よく私の問いに答えるのでした。――

 問「今日はいろいろ御骨折でした。今ちょっと子供からお出かけの様子だけをききましたが、子供も龍宮には大分面喰った模様ですね。」
 答「はい、大変におかしうございました。子供は、龍宮の話は幼い時分にお伽噺で聞いたり、また唱歌でも習ったりしたが、一体本当にそんな所があるのかしら。……よもや亀が迎えにくるのではあるまいなど、いろいろの空想を起して気を揉むのでございます。あまりおかしうございますからら、わざと説明せずに少しじらしてやりました。地上の人は、龍宮は海の底だと考えていますが、実はそうではありません。龍神さまは海にも、陸にも、ここにでもおられます。龍神さまと海との間に、特別の関係なんか少しもございません。龍宮とはつまり龍神様のお宮のある世界ということでございます。
 問「一体、龍神の本体は何なのですか?」
 答「先へ行ってお調べになれば、追い追いおわかりになりますが、龍神様はつまり神様……元の生神さまで、一度も人間のように肉体をもって、地上にお現れになられたことのない方々でございます。で、そのお姿なども自由自在でございます。私が拝みますと、その御本体はやはりわれわれ同様、白い丸い美しい球でございますが、何かの場合に、力強いお働きをなされます時は、いつもあの逞しいお姿……あの絵にあるような龍体をお現わしになられます。それから、私どもが龍宮へ参ってお目にかかる場合などには、又そのお姿が違います。御承知の通り、あの神々しい理想のお姿……それはそれはご立派でございます。」
 問「すると龍神さんは変化することの名人で、到底われわれ人間には歯が立ちませんね。」
 答「なにしろ神様と人間とは、大へんに段階がちがいますからね……。」
 問「すると、すべての神様は、悉く龍神さまと思えばよいわけでしょうか?」
 答「さあ、すべてという事は、到底私などの分際で申上げかねますが、少くとも、人間受持ちの神様は、龍神さまであると考えてよろしいと存じます。」
 問「そしてその龍神さまと人間との関係は?」
 答「地上の人類は、最初はみな龍神様の御分霊を戴いて生れたように承っております。つまり龍神さまは、人間の霊の御先組さまなのでございましょうね……。」
 問「いや大体見当がついてきました。詳しい説明は先へ行って伺うことにして、早速龍宮探検のお話を願いましょうか。」
 答「承知致しました。では申上げます……。あれから私達二人は、なにかと話をしながら、随分長い道中を致しました。白い浄らかな砂地の大道、それがずーっと見渡す限り続いております。歩いても歩いても、なかなか歩ききれそうもなく感じられましたが、つまり私達の境涯と、龍宮の所在地とは、それほどまでに懸隔があるのでございましょう。それでもとうとう辿り尽くして、ふと彼方を見渡しますと、行く手遥かに龍宮の建物が夢のように浮び出ました。私にはさして珍らしくもございませんが、それを発見した時の子供の驚きと歓びは、大へんなものでございました。
 「やあ大きな門がある! いくらか旅順方面にある中国式の門に似ているな。やあ内部の方には大きな建物がある! 反り返った棟、朱塗の柱廊、丸味がかった窓の恰好――こいつも幾らか中国趣味だ。いやどうも素的だ……」としきりにはしゃいでおりました。」
 問「さぞ久しぶりで、子供も気が晴れ晴れとしたでしょう。元来陽気な性質の子ですから、たまには面白い目にも逢わしてやりたいと思います。」
 答「その通りでございますとも! それには今度の龍宮見物は、大当たりでございました。伊勢神宮への参拝などとはまた気分が違います。伊勢は世にも尊い神様のお鎮まりになられるところで、身が引きしまるような神々しい感じに打たれますが、こちらは、立派ではあるが、何やらその、そう申しては相済みませぬが、面白い、晴々しい、親しみの深い感じが致します。」
 問「お話を伺っただけでも、ほぼその状況が察せられます。境内もさぞ立派でしょうね。」
 答「そりぁ立派でございます。随分広いお庭があって、そこには塵一つとどめません。樹木は松、杉、檜その他がほどよくあしらわれ、一端には澄み切った水を湛えた、大きな池もございまして、それには欄干のついた風雅な橋が架っております。すべて純粋の日本風の庭園でもないが、さりとて中国風でも、また西洋風でもない。矢張り一種独特の龍宮風でございます。大きな、面白い恰好の岩なども、あちこちにあしらわれております。裏の方は、こんもりと茂った山に包まれて、なかなか奥深く見えます。が、概して神社と申すよりか、むしろ御殿……御住居といったような趣が漲っております。で、子供も大へんに陽気になりまして、生前かねて噂にきいていた龍宮の乙姫様に、早く合わしてくれと申します。私も今日は是非、乙姫さまにお目通りを願いたいと思いました…‥」

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 55-58(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは、本当の龍宮は海の底にあるのではないことがわかります。龍宮とは龍神様のお宮のある世界ということで、龍神様というのは人間受持ちの神様であり、人間の霊の御先祖さまであるといわれています。守護霊はすでに龍宮へ行ったこともあり、「神々しい理想のお姿」の龍神様にもお目にかかっているようです。融通無碍にその姿を変えることができますが、その御本体は、やはりわれわれ同様「白い丸い美しい球」であるとも述べられています。

 瞬時にどこへでも行ける霊界で、龍宮は、「歩いても歩いても、なかなか歩ききれそうもなく」遠くに感じられるというのは、興味深く思われます。大きな門をくぐると大きな建物があって、その造作がいくらか中国趣味で素敵だと、新樹氏がはしゃいでいたと聞いて、「たまには面白い目にも逢わしてやりたいと思います」と言っておられた和三郎先生もきっと喜ばれたことでしょう。新樹氏は、このあと、いよいよ乙姫様にお目通りすることになります。(2014.02.21)

  36. ある日の龍 宮 (その3)

 問「乙姫さまと申すと一体どなたのことで。」
 答「それは豊玉姫さまのことでございます。私の方の系統の本元の神さまで、そう申しては何でございますが、この方が龍宮界の一番の花形でいられます……。」
 問「それで、あなた方は、その豊玉姫にお会いなされたのですか?」
 答「はい、お目通りを致しましたが、それまでには順序がございます。まず御案内を頼む時に、子供と私との間にひと悶着起りました。私達は正面のお玄関――立派な式台のところに立っていましたが、私が子供に向い、あなたは男の身で、今日の責任者だから、御案内を頼むのはあなたの役目だと申しますと、子供はもぢもぢと尻込みをしていました。「僕は新前だから駄目です。きまりが悪い……。」そんな事を申して居るのです。
 致し方がございませんから、「私が御免ください」と申しますと、すぐに一人の年若い侍女が取次に出てまいりました……。」
 問「年若の侍女と申して、幾歳位の方です?」
 答「さあ、ざっと 16歳位でもありましょうか、たいそう品のよい娘さんで、衣裳なども神さんのお召しになられるような、立派なものを着ておりました。」
 問「その取次の女だって、本体はやはり龍神なのでしょうね……。」
 答「むろん龍神さんです……。」
 問「昔、彦火々出見命が龍宮へ行かれた時にも一人の女が出てきたように古事記に書いでありますが、矢張り同一人物ではないでしょうか?」
 答「さあ、それは何ともわかりかねます。事によったら同じ方かも知れません。とにかく私から早速来意を申しました。
 『私達はかくかく申すもので、この子の父親からの依頼により、今日はわざわざ龍宮探検に参りました。お差支えがなければ、何卒乙姫様にお目通りを許されたい、とそうお取次をお頼みします……。』
 その辺の呼吸は、少しも人間の世界でやるのと相違はございません。女は一礼して引込みましたが、間もなくまた姿を現わして
 『乙姫さまには、その事をとうに御存じでいらせられます。どうぞお上りくださいませ』と申します。
 で、私は草履、また子供は靴を脱いで式台にのぼり、導かれるままに、長い廊下をいくつもいくつもくねくねまわって、奥殿深く進みました。途中子供は小声で私に向い、
 『僕は生前一度も宮中などへ招ばれたことはなく、他の風評をきいて羨ましく思っていたものです。しかし龍宮の御殿へ招ばれたのは、世界中で恐らく僕一人でしょう。そう思うと僕は鼻が高いです。』
 ――そんな事を申して歓んでおりました。よほど子供は身にしみてうれしかったこととみえます。」
 問「それからどうしました?」と私もつい急き込んで尋ねました。

 私から催促されて、守護霊は例のくだけた調子で、早速その先を物語りましたが、それは相当現実味を帯び、幾分人を肯かせる点もないではありませんが、さてその片言隻語のうちに何やら人間離れのした、何やら夢幻劇的色彩らしいものが、多量に加味されているのでした。取扱う事柄が事柄なので、こればかりはどうあっても免れない性質のものかもしれません。
 取次の女によって、二人がやがて案内されたのは、華麗を極めた一つの広間なのでした。例によってそれは日本式であると同時に、また中国式でもあり、そのくせ、どこやら地上一切の様式を超越した、一種特有の龍宮式なのでした。
 眼の覚めるような丹塗の高欄、曲線美に富んだ丸窓、模様入りの絨毯、そこへ美しい卓子だの、椅子だのが程よくあしらわれて、何ともいえぬ朗かな感じを漂わしている。上の格天井がまた素晴らしく美事なもので、その中央の大きな桝形には、羽翼の生えた、風変わりの金龍が浮き彫りにされている……。
 室内にはいろいろの装飾品も置いてありました。先ず目立って見えるのは卓上の花瓶、それに活けてある大輪の白い花は、椿のようであって、しかも椿ではなく、えもいわれぬ高い香が、馥郁としてあたりをこめる。床の間らしいところには、美しい女神の姿を描いた掛軸がかかっていて、その前に直径五、六寸の水晶の球をあしらった、天然石の置物が置いてある……。
 二人が与えられた椅子に腰をおろして待つ間ほどなく、ふと気がついてみると、いつのまにやら乙姫様は、もうちゃんと室内にお現われになっておられるのでした。妻の守護霊は、その時の状況をこう述べるのでした。――

 「あの時はまことに意外でございました。乙姫様は、当たり前に扉を開けて、そこからお出ましになられたのでなく、こちらが気のつかない中に、すーっと風のように、いつのまにやら、われわれの頂戴した卓子から少し離れた、上座の小さい卓子にお坐りになっておられたのです。で、私達は急いで椅子を離れて御挨拶を申上げました・・・・・。
 乙姫様は申すまでもなく、龍体をお持ちの方でございますが、この場合龍体では勝手が悪うございますので、いつもの通り、とてもおきれいなお姫様のお姿でお合いくださいました。そのおきれいさは普通の人間のきれいさとは違います。何と申してよいやら、すべてがすっきりと垢抜けがしており、すべてが神々しく、犯し難い品位を具えておられます。
 目、鼻、口元と一つ一つお拾いすれば、別にこれぞというのではございませんが全体としてとてもご立派で、人間の世界には、恐らくあれほどの御器量の方は見当たらないかと存じますね。体格もお見事で、従ってその御服装が一段と引き立って見えます。
 下着は薄桃色、その上に白い透き通った、紗のようなものを羽織っておられますので、その配合が何ともいえぬほど美しうございます。お腰には白い紐のようなものを巻きつけ、それを前面で結んで、無雑作に下げておられます。すべてが至極単純で、他に何の飾気もない。それでいて、何ともいえずお綺麗なのでございます。
 御年輩は、左様でございますね、やっと三十になるかならずというところでございましょうか。もちろん娘さんという風ではなく、奥様らしい落ち着きが自然に備わっておいででございます……。」

 それから来訪の二人は、早速乙姫さまに向い、私の代理として短刀直入的に、いろいろの事を質問したのでしたが、乙姫さまは絶えずにこやかに、人間らしい親しみをもって、気軽くそれ等を受け流されました。なるべくありのままに、その時の問答を写し出してみましょう。

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 59-63(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 龍宮に着き、玄関で、守護霊から案内を乞うようにと言われて、新樹氏が、「僕は新前だから駄目です。きまりが悪い」と言ってもぢもぢと尻込みをしていたというのには微笑を誘われます。それで守護霊が、お取次ぎの侍女に来意を告げると、侍女は一礼して引込みますが、間もなくまた姿を現わして、乙姫さまには、二人の来意を「とうに御存じでいらせられます」と答えています。壮麗で霊的な雰囲気が伝わってくるようです。

 乙姫様は龍体では勝手が悪いので、新樹氏たちの前には美しいお姫様の姿で現われました。人間の美しさとは違って、すべてが神々しく、犯しがたい品位を具えておられるというのは、納得できるような気がします。それにしても、人間界とは次元の違う龍宮の建物や室内調度品の素晴らしさのほかに、乙姫様の美しさや、見事な体格、服装などが、これほどまでに細やかに、かつ具体的に日本語で伝えられていることに、改めて驚きと畏敬の念を抑えることが出来ません。(2014.02.28)

  37. ある日の龍 宮 (その4)

 最初の挨拶が済んだ時に、対話の糸口を切られたのは乙姫さまでした。――

 「あなた方お両人は、人間世界からの使者として、研究のために、わざわざこちらにおいでなされたのであるから、こちらでも大切に取扱って上げねばなりませぬ。――ただ龍宮というところは、なかなかこみ入ったところで、一度や二度の訪問で、すっかり腑に落ちるというわけにもいきませぬから、あまりあせらすに、ゆっくりお仕事にかかってもらいます。私で足りぬところは、それぞれ受け持ちの者に引き合わせて答えさせます。今日は何ということなしに、よもやまの話なりと致しましょう……。」
 本家の奥方が、お目通りにまかり出た親戚の者どもに向かって、やさしく話しかけるといった按配です。今日初めて龍宮訪問を行なった新樹は、これが幼い時に耳にした、あのお伽話の乙姫さんかと思うと、不思議で不思議でたまらなかったらしく、早速質問の第一矢を放ったのでした。――
 「不躾なことをお尋ねしてはなはだ恐縮ですが、あの浦島太郎の龍宮のお伽話というのは、あれは事実譚なのでしょうか? 僕は父に報告する義務がありますし、今日はまた龍宮訪問の第一日でもありますし、かたがた一つ記念に詳しいお話を伺いたいもので・・・・・。」
 帰幽後間もない、うぶな若者から、いきなりこんな質問を発せられて、さすがの乙姫さまも思わず、ホホとお笑いになりました。
 「あんなことは大概人間の作り事、龍宮が海の底にあると思うから、自然に亀などもお引き合いに出されたのです。龍宮が海の底にあるのでもなく、また陸の上にあるのでもなく、それらすべてからかけ離れた、一つの別世界であることは、あなたにそろそろもうお分かりになったでしょう。人間というものは、自分の智慧から割り出して、いろいろ面白くこじつけるのがお上手です。あのお伽話よりか、古事記とやらいう書物に載せてある龍宮の話の方が、はるかに事実に近いようです・・・・・・。」
 「して見ると、あの古事記の彦火々出見命の龍宮行も、お伽話の玉手箱の物語も、その種はつまり一つなのですね!」と新樹は驚ろきの眼を見張り、
 「それで幾らか僕にも見当がついてきました。彦火々出見命さまも、浦島太郎も、どちらも龍宮の乙姫さまと結婚され、そしてどちらも大へん仲良くお暮しになったことになっている……。」
 新樹がそう言いますと、乙姫さまは、恥ずかしそうにさっとお顔を赤らめて、さし俯かれたのでした。やはり神さまでも女性は女性、どこまでもお優さしいところがあるらしいのです。
 それから、ちょっと主客の間の言葉がとぎれましたが、それでも乙姫さまは、すぐに面を正して言葉を続けました。――
 「私が結婚した事は、あなたの今言われたとおりであるが、しかし話はただそれだけであって、後は大てい人間が勝手に作り上げたものに過ぎません。また自分たち龍神の夫婦関係というのは、人間の夫婦の間柄とは大へんな相違で、いわば霊と霊の和合なのです。そこは充分のみ込めるように、篤と人間の世界に伝えて貰います。」
 「畏まりました」と新樹は殊勝らしく答えました。「ただそれにつけて伺いたいのは、乙姫さまの御主人さまのお名前は、何と申し上げてよろしいのでしょうか。やはり彦火々出見命様とおっしゃられるのですか?」
 「そう申し上げてよろしいのです。――もっとも名前というものは、ただ人間に取って必要な一つの符牒であって、こちらの世界には、全然その必要はないのです。心に思えばそれですべての用事はたちどころに用が足りてしまいます。この事もよく取違いせぬよう、人間界に伝えてください。」
 「承知致しました……。それでその彦火々出見命様ですが、古事記に書いてある所によると、御同棲後3年ばかり、故郷忘れ難く、そのまま龍宮界を立ち去られたように伝えてありますが、あれは一体どういう次第なのでありますか。お差支えなければ、その真相をお漏らしになっていただきたいもので……。」
 すると乙姫さまは、今までよりもずっとしんみりとした御様子で、こう語り始められたのでした。――

  浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 63-66(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 龍宮で乙姫様から「今日はよもやまの話なりと致しましょう」と優しく声をかけられた新樹氏が、「不思議で不思議でたまらなかったらしく」思ったのは無理はありません。そしてまず訊いたのは、あの浦島太郎のお伽話が事実かどうかということでした。乙姫様は笑って、あれは人間の作り話で、龍宮は海の底にあるのではなく、海や陸からかけ離れたひとつの別世界だと答えます。その乙姫様も、結婚された話を持ち出されますと、さっと顔を赤らめて、うつむかれていました。

 日本神話では、彦火々出見命は天照大神のひ孫にあたる山幸彦として知られています。海で失くした釣り針を捜して龍宮へ赴き、豊玉姫の美しさに魅了されて結婚したことになっていますが、豊玉姫がその後の海辺の産屋で「姿を見ないでほしい」と言ってワニざめの姿で出産したというような話を含めて、ご本人から、「人間が勝手に作り上げたもの」と否定されました。彦火々出見命と結婚したことだけは認めていますが、ここでも乙姫様は、私たちが誤解しないように、龍神の夫婦関係というのは霊と霊との和合であることを強調しているようです。(2014.03.07)

  38. ある日の龍 宮 (その5)

 「あれもやはり地上の人が、例の筆法で、面白く作り上げたものなのです。新婚の若い男女が、初めて同棲することになった当座は、たれしも万事をよそに、ひたすら相愛のうれしい夢に耽ります。これは肉体の悩みを知らぬ霊の世界ほど、一段とその感じが強いともいえます。が、恋愛のみが生活のすべてでないことは、こちらの世界も、人間の世界も何の相違もありませぬ。
 女性としては、もちろんいつまでもいつまでも、良人の愛にひたり切っていたいのは山々であるが、男性はそうしてのみも居られませぬ。こちらの世界の男子として何より大切なのは、外の世界の調査探究――それがつまりこちらの世界の学問であり修行であるのです。わたくしの良人も、つまりそのために、まもなく龍宮を後に、遠き修行の旅に出かけることになられました。
 もちろんそれはただ新婚の際に限ったことではありません。その後も絶えずそうした仕事を繰り返しておられます。そうした門出を送る妻の身は、いつも言い知れぬさびしい、さびしい感じに打たれ、熱い涙がとめどもなく滲みでるもので、それが女性のまことというものでしょう。私とてどんなに泣かされたか知れませぬ。
 いかに引きとめても、引きとめられぬ男の心……別れのつらさ、悲しさは、全く何物にもたとえられぬように思いますが、しかしその中に時節が来れば、良人は再び溢れる愛情を湛えて妻の懐に戻ってまいります。会っては離れ、離れてはまた会うところに、夫婦生活の面白い綾模様が織り出されるのです。
 私の良人は、もともと龍宮の世界のもので、従って他の故郷などあろう筈がありませぬ。あれはただ人間が、そういう事にして、別れる時の悲しい気分を匂わせたまでのものです。まんざら根拠のない事でもありませぬが、しかし事実とはよほど違います。一口にいうと、大へんに人間臭くなっていると申しましょうか……。」

 こんな話をされる時の乙姫様の表情は、実に活き活きとしていて、悲しい物語りをされる時には、深い愁いの雲がこもり、うれしい時には、またいかにも晴れ晴れとした面持ちになられるので、そのすぐ前で耳を傾けている二人の感動は、とても深いものがあるのでした。

 「そんなものですかなぁ」と、新樹は生前の癖で、両腕を胸に組みながら感歎の声を放ちました。
 「とにかく僕はそのお話で、ようやく幾分か疑問が解けたように思います。人間は物質世界の居住者、それが龍宮世界の居住者と同棲するという事は、どうしても道理に合いませんからね……。つまり彦火々出見命さまは、現在でも依然こちらの龍宮世界に御活動遊ばされているわけなのですな……。」
 「もちろん引き続いて、こちらで御修行をつまれたり、日本国の御守護を遊ばされたりしておられます。」
 「古事記には、豊玉姫様のお産の模様が書いてありますが、あれはどんなものですか、やはり人間の大衆文芸式の想像譚でありますか?」
 「あれだけは、不思議によく事実に合っております。身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役、その際には、自然龍体を表わし、たったひとりで、巌窟の内部のような所で子供を生み落すのです。しかしそれが済んでしまえば、龍体は消えて、再び元の丸い球になります。」
 「赤ン坊にお乳をのませるというような事は……。」
 「そんな事は絶対にありません。生れた子供はすぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修行をはじめるのです……。」
 「そうしますと、龍神の世界には、一家団欒の楽しみというようなものは無いのですね。」
 「無いことはないが、人間のように親子夫婦が、一つの家に同居するというような事はないのです。思えばすぐ通ずる自由な世界に、同居の必要がどこにありましょう。あなたも早くこちらの世界の生活に慣れるように努めてください。無理もないことであるが、まだどうやらあなたは、地上の生活が恋しいように見えます……。」
 「全く仰せの通りで……」と新樹はいささか沈んだ面持ちで、「僕にはまだ、こちらの世界の生活が、しっくり身につかないで仕方がないのです。今日初めて龍宮へ連れて来ていただいても、何となしに現実味にとぼしく、これが果してほんものかと思われてならないのです。立派な建築を見ても、それが何となく軽く、何となくどっしりと落ち着いた気分がしない。何やら不安、何やら物足りないように思われるのです。いつになったら、僕に真の心の落ち着きができましょうか?」
 「月日が重なるにつれ、修行が加わるにつれ、心の落ち着きは自然とできてきます」と乙姫様はやさしく新樹を労わってくださるのでした。
 「あなたが龍宮で学ぶべき事は沢山ある。気兼ねせず、いつでも尋ねて来られるがよい。決して悪いようには計らわぬほどに……。が、初めての訪問でもあるし、今日は二人ともこの辺で引取ったらよいでしょう……。」

 二人ははっとして恭しくお辞儀をしたが、再び頭を上げた時には、いつしか乙姫様の姿は室内から消えてしまっていたのでした。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 66-70(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここでは、乙姫様が結婚後、夫君が龍宮を離れて修行の旅に出られることがあることについて、しんみりした調子で語り始めていますが、もちろんこれは、多慶子夫人の口を通じて伝えられていることです。それに対する新樹氏の質問なども同様です。新樹氏の傍にいるはずの守護霊は、黙って乙姫様と新樹氏の対話に耳を傾けているようです。興味深いのは、その対話のことばだけではなく、乙姫様の表情やそのすぐ前で深く感動している二人――新樹氏と守護霊の様子なども、多慶子夫人の霊眼によって詳細に捉えられていることです。

 乙姫様は、龍神の夫婦関係というのは霊と霊との和合であることを強調していましたが、お産については、「身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役」と否定してはいません。そして、お産の際には、たった一人になって「巌窟の内部のような所で子供を生み落すのです」とも述べています。「生れた子供はすぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修行をはじめるのです」とありますが、これは、この世でも、生まれたばかりの赤ちゃんが魂の領域では立派に成熟した大人であるといわれたりするのと関連するのでしょうか。(2014.03.14)

  39. 新樹の通信 ―第3編―

    目 次

   はしがき

  1. 帰幽後の一仏教信者
  2. 帰幽後の一キリスト教徒
  3. 幽界人の富士登山
  4. 幽界の音楽修行
  5. 父の臨終を視る
  6. 天狗探検譚

  40. は し が き

 私が『小桜姫の通信』を受取りつつある間にも、同一機関を通じて亡児・新樹からの通信は間断なく現われつつありました。前者は、相常長い歳月に亙る幽界居住者の古い思い出話で、自ずからそこにまとまりがあり、また一つの見識もありますが、後者は、経験も思慮も乏しい新帰幽者のその折々の感想、または見聞の通信で、何れも断片的、即興的の性質を帯びており、時には随分稚気に富んだ個所もあります。とも角も私としては、通信の都度、これを記録に留めておきましたので、今では数冊のノートブックが埋まってしまい、分量からすればすでに相当なものであります。今後これが何年続き、そして何冊のノートを埋めることになるか、考えてみれば、私ども父子の絆は随分妙なところで結ばれていると思われるのであります。
 このような次第で、新樹の通信の内容は必らずしも発表に適しません。私的関係以外にはむしろつまらないのが多く、また感情からいってもこれを公表するに忍びないのが多いのであります。私がこの敷年間、殆んど新樹の通信に手を触れなかった所以であります。
 が、ひるがえって考えれば、日本の心霊学会の現状はあまりにも貧しく、あまりにもさびしく、心霊学徒が観て首肯し得るほどの純真な霊界通信は殆んどどこからも現われていないのであります。甚だしきに至っては、こうした通信の有無さえも知らない者がなかなかに多い。これは、人間生活に取ってまことに多大の損失で、こんなことでは、到底正に来るべき新時代の先達たる資格は備わらないと言わねばなりますまい。
 果せる哉、日本の現在の思想界、信仰界は混沌を極め、また日本の現在の文学界、芸術界は低調を続けております。公平に観て、現代人士の眼光は、卑俗なる地上生活以外には殆んどただの一歩も踏み出していないのであります。
 かれを思い、これを思う時に、私はとうとう勇を鼓して新樹の通信に手をつけてみることになりました。私としてはなるべく研究者の参考になりそうなもの、またなるべく悩める人の心の糧になりそうな個所を拾い出すつもりでありますが、それが果して読者の期待に添い得るか否かは、自分ながら覚束ないのであります。くれぐれも、これは未完成な一青年からの私的通信でありますから、何卒あまり多くを期待されぬよう切望する次第であります。

                  昭和11年7月    浅 野 和 三 郎

 現代文訳者私感

 『新樹の通信』本文復刻版は三篇から成っていて、これからが最終編です。このなかには、和三郎先生のご臨終の様子を記した「5.父の臨終を視る」も含まれていて、涙を誘われます(5と6は新樹氏の伯父である浅野正恭海軍中将の編集になっています)。和三郎先生は、この第三篇をまとめるにあたり、当時の日本では、「純真な霊界通信は殆んどどこからも現われていない」状況で、「甚だしきに至っては、こうした通信の有無さえも知らない者がなかなかに多い」ことを嘆いておられますが、その状況は今日でもあまり変わっていないといえるかもしれません。(2014.03.21)

 41. 一.帰幽後の一仏教者 (その1)

 ある日、新樹をよんでよもやま話をしたついでに、近頃そちらの世界で誰か珍しい人物に会ったことはないか、と訊ねました。新樹はしばらく考えて答えました。――

 「格別珍しい人にも会わないですが、この間一人の熱心な日蓮信者に会って、死後の感想を聞きました。それなどは幾分か変わったほうです。」
 「日蓮信者は面白いな……。どういうことでその人に会ったのか。」
 「なに、僕が指導役のお爺さんにお願いして、わざわざ連れてきて戴いたのです。僕は生前仏教の事も、キリスト教の事も、少しも知らなかったので、それら、既成宗教の信者が、こちらの世界へ来て、どんな具合に生活しているか、またどんな考えを抱いているか、一つ実地に調べてみたいと思ったのです。そうするとお爺さんは、見本として菊地という一人の老人……なんでも15年ばかり以前に、62歳で帰幽した人で、専門は蚕糸家だとか言っていましたが、その人を連れて来てくれたのです。生国は寒い方の国らしいですね。若い時には東京の学校で勉強したと言っていました。いかにも物腰のやわらかな、人品の賎しからぬ人物でした……。」
 「面会した場所は、やはり例の洋風の応接間かい?」
 「そうです。初対面の珍客ですから、僕の方でも大分念入りに準備をしました。應接間の中央には一脚のテーブルに然るべく椅子をあしらって置きました。それから壁には掛け軸もかけました。僕は神さんの方ですから、皇孫命様のお掛け軸を戴いてあります。それは神武天皇時代のような御服装で、威風堂々四海を呑むといった、素晴らしい名画です。洋館ですから、別に八足台などは置きません。ただ普通の台の上に、榊と御神酒を供えただけです。」
 「お前の服装は?」
 「僕は和服にしました。鼠色の無地の衣服に、共の袴、白足袋・・・・・ごくじみなものです。」
 「お客さんはどんな服装だったかな?」
 「最初は墨染の法衣を着ていました。菊地という人は、現在ではもうすっかり仏教的臭みから脱却してしまっているのですが、元仏教信者であったことを表現するために、わざわざ法衣を着てきたのだそうです。ですから一応挨拶を済ましてからは、いつの間にか、普通の和服姿に変わっていました。そのへんがどうも現世らしくない点です。」
 「まるで芝居の早変わり式だね・・・・・。かなり勝手が違っている……。」
 「勝手が違っているのは、そればかりではありませんよ。その時、僕がふと人間心を出して、現世ならこんな場合に、茶菓でも出すところだが、と思ったか思わぬ間に、早くもお茶とお菓子とが、スーッとテーブルの上に現われました。まるで手品です。もちろんそれは一向に風味も何もありません。単に形式だけで、つまらないことおびただしいです・・・・・。」

 雑談は良い加減にしておいて、私はそろそろ話題を問題の中心に向けていきました。

 「菊地さんは、よほど堅い法華の信者だったのかしらん!」
 「そうらしかったのです。平生から血圧が高く、医者から注意されていたので、かたがた仏の御力に縋ったらしいです。が、それがために、格別病気がよくもならず、そしてとうとう脳溢血で倒れたというのです。」
 「脳溢血で急死したのでは、相当長く自覚できなかっただろうね。」
 「ええ、何年無自覚でいたか、自分にもさっぱり見当がつかないと言っていました。ところが、或る日遠くの方で、菊地、菊地と名前を呼ばれるような気がして、ふと眼を覚ますと、枕元に一人の白衣の神さんが立っていたそうで、その時は随分びっくりしたといいます。ともかくもお辞儀をすると、お前は仏教信者として死んだが、仏教の教えには、大分方便が混っているから、その通りにはいかない。こちらの世界には、こちらの世界の不動の厳しい決まりがあるから、素直に神の言うことを聞いて、一歩一歩着実に向上の道を辿らねばならない。お前のように、一途に日蓮に導かれて、何の苦労もなく、すぐ極楽浄土へ行って、ぼんやり暮そうなどと考えても駄目である……。ざっと、そんなことを言いきかされたといいます。」

  浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 1-4 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 和三郎先生は、時おり新樹氏を呼び出して、「よもやま話」をすることもあるようですが、まるで、この世とあの世の次元の違いなどは超越しているような感じです。ここでは、そのようにして新樹氏から聞き出したかつての熱心な日蓮宗信者の話が紹介されています。新樹氏の家の応接間に連れてこられた菊地さんは、元仏教信者であることをあらわすためにわざわざ法衣を着ていましたが、挨拶がすむと、いつのまにか普通の和服姿に変わっていた、などというのは、やはり私たちには、ちょっと想像することもできません。

 私たちは、一般的には、熱心に仏教を信仰していたのであれば、霊界へ還っても安らかな生活が待っているはずだと考えがちですが、菊地さんの話では、必ずしもそうではなかったようです。「仏教の教えには、大分方便が混っているから、その通りにはいかない」とか、「一途に日蓮に導かれて、何の苦労もなく、すぐ極楽浄土へ行って、ぼんやり暮そうなどと考えても駄目である」などと聞かされた、という話には、私たちも他人事ではないような気がしないでもありません。(2014.03.28)

 42. 一.帰幽後の一仏教者 (その2)

 「菊地さんは大分あてが外れたわけだな……。」
 「大いにあてが外れて憤慨したらしいです。なにしろ相当我の強い人ですから、さんざん神さんに喰ってかかりました。――信仰は各人の自由である。自分はかねて日蓮様を信仰したものであるから、どこまでもそれで行きたい。そのお導きで、自分はきっと極楽浄土へ行ってみせる……。」
 「法華信者はなかなか堅いからな・・・・・。先入主というものは容易に取れるものでない……。」
 「なかなか取れないものらしいです。とにかく何と言われても、菊地さんが頑張って聞かないものですから、神さんの方でも、とうとう本人の希望通りで、仏教式の修行をさせたそうです。そこが有り難いところだと思いますね。神さまは、決してその人の信仰に逆らわないで、導いてくださるのですね。僕なんか気が短くて、下らないことを信じている人を見つけると、すぐ訂正してやりたくなりますが。結局それでは駄目らしいです。間違った人には、そのまま間違わしておいて、いよいよ鼻を打った時に、初めて本当のことを説明してやる――どうもこれでなければ、人を導くことはできないようですね。菊地という人なんかも、やはりその手で薫陶されたらしく、やがて一人の坊さんの姿をした者が指導者となり、一生懸命にお題目を唱えながら、日蓮聖人を目標として、精神の統一を図るように仕向けられたといいます。そしてその間には、日頃お説教で聞かされたような、随分恐ろしい目にも逢わされ、亡者のうようよしている、暗い所を引張りまわされたり、生ぬるい風の吹く、無気味な沙漠を通らせられたり、とても歩けない、険阻な山道を登らせられたり、世にも獰猛な天狗に攫われ損ねたり、また、めらめら燃える火炎の中をくぐらせられたり、その時の話は、とても口では述べられるものではないと言っていました。とにかくこれには、さすがの菊地老人も往生し、はてなと、少し考えたそうです。――自分は決してそれほどの悪人ではない筈だが、どういう訳で、こんな恐ろしい目にばかり逢わされるのかしら……。ことによると、これは心の迷いから、自分自身で造り上げた幻覚に苦しめられているのではあるまいか。なんぼなんでもあんまり変だ……。」
 「なかなかうまい所に気がついたものだ。近頃マイヤースの通信を見ると、帰幽直後の人達は、大てい夢幻界に住んでいるというのだ。つまりそれらの人達は、生前頭にしみ込んでいる先入的観念に捕えられ、その結果、自分の幻想で築き上げた一つ夢幻境、仏教信者ならば、うつらうつらとして、蓮の台などに乗っかっているというのだ。そんなのは、一種の自己陶酔で、まだ始末の良い方だが、困ったことに、どの既成宗教にも、地獄式の悪い暗示がある。菊地さんなども、つまりそれで苦しめられた訳だろう……。」
 「そうらしいですね。とにかく菊地さんが、変だと気がつくと、その瞬間に、これまでの恐ろしい光景は拭われたように消え、そして法衣を着た坊さんの姿が、がらりと白装束の神さんの姿に急変したといいます。菊地さんは、つくづくこう述懐していました。――先入主というものは、実に恐ろしいものだ。娑婆にいる間はそれほどでもないが、こちらの世界は、すべて観念の世界であるから、間違った考えを懐いておれば、全部がその通り間違ってきてしまう。今から考えると、仏教というものは、いわば一種の五色眼鏡で、全部うそというわけでもないが、しかしそれを通して見る時に、すべてのものは、悉く一種の歪みを帯びていて、赤裸々の現実とは大分の相違がある。人間が無智蒙昧である時代には、あんな方便の教えも必要かもしれぬが、今日では、たしかに時代遅れである。現に自分なども、そのためにどんなに進歩が遅れたか知れぬ。そこへ行くと、神の道は現金掛値なし、蓮の台もなければ、極楽浄土もなく、その人の天分次第、また心がけ次第で、それぞれ適当の境地を与えられ、一歩一歩向上進歩の途を辿り、自分に与えられた力量の発揮に、全力を挙げるのだから実に有り難い。それでこそ初めて生き甲斐がある。自分などは、まだ決して理想的な境地には達しないが、しかし立派な指導者がついて何くれと導いてくださるので、少しはこちらの世界の実情にも通じてきた。殊にうれしいのは、自分に守護霊がついていることで、今ではその方ともしょっちゅう行き来している。それは帰幽後五百年位経った武士で、なかなかのしっかり者である……。」
 「菊地さんの守護霊は、やはり戦国時代の武士だったのか、道理でしっかりしている筈だ……。それはそうと、菊地さんについていた坊さんが、急に神さんの姿に早変わりしたというが、あれどういう訳かしら……。」
 「僕も変だと思いましたから、いろいろ訊いてみましたが、死んだ人には、宗教宗派の如何を問わず、必ず大国主神様からの指導者がつくものだそうです。しかし仏教信者だの、キリスト教信者だのには、先入的観念がこびりついていて、真実のことを教えても、なかなか承知しないので、本人の眼が覚めるまで、神さんが一時坊さんの姿だの、天使の姿だのに化けて、指導しているのだそうです。随分気の永い話で、僕達には、まだとてもそんな雅量はありませんね……。」
 「仏教信者の方は大体それでわかったが、キリスト教信者はどんな具合かしら。」
 「実はそれについて、僕も菊地さんも、大いに不審を起して、神さんにお願いして、キリスト教の堅い信者を、一人よんで貰いました。その話はいずれ次回に申上げることにしましょう……。」

 その日の会談は、ひとまずこんなことで終わったのでした。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 4-8 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ここに出てくる菊地さんは、「堅い法華の信者」で、生前、ふだんから血圧が高くて医者から注意されていても、仏の御力に縋っていれば医者にかからなくても治ると考えていたようです。そのために、結局、脳溢血で倒れてしまいました。霊界へ移っても、日蓮宗への思い込みが強すぎて、暫くは、霊界での不動の決まりに素直に従えなかったのかもしれません。

 このような思い込みや、強い先入的観念が霊界の修行においては弊害になることはよくいわれてきました。それをここでは、菊地さん自身が自分の経験として、「先入主というものは、実に恐ろしいものだ。こちらの世界は、すべて観念の世界であるから、間違った考えを懐いておれば、全部がその通り間違ってきてしまう」と述懐していることに注目させられます。(2014.04.04)

 43. 二、帰幽後の一キリスト教徒 (その1)

 「今日はかねて約束をしておいたキリスト教徒の話をきくことにしようかな……。」
 ある日私は新樹を呼び出して、そう話しかけました。
 「承知しました」と新樹は甚だ機嫌よく、「いや、あの日の僕の應接間は大繁昌でした。日蓮信者の菊地老人、既成宗教とはまるで没交渉の僕、そこへ一人のキリスト信者が加わったのですから、ちょっと一種の宗教座談会みたいな感がありました。お蔭で、僕も大へん勉強になりました……。」
 そんなことを前置きしながら新樹は、割合にくわしくその折の状況を報告しました。それはざっとつぎのようなものでした。

 「御免くださいませ。」
 そう言って、玄関に訪ずれたのは、痩せぎすの、きりっとした男性ふうの婦人でした。年齢はざっと三十位でしょう。僕は直ちにこの婦人を應接間に導き入れ、菊地さんと一緒になって、大いに歓迎の意を表しました。
 この婦人は、大へんに交際慣れた人で、すらすらと初対面の挨拶を述べましたが、ただ姓名だけは、僕が訊いても、なかなか名乗ろうとしませんでした。仕方がないから、僕はこう言ってやりました。――
 「こちらの世界では、あるいは姓名の必要がないかも知れませんが、僕は父に頼まれて、一切の状況を通信する責任があるのですから、せめて苗字だけでも名乗って下さい。単に或る一人の婦人といっただけでは、物足りなくて仕方がないです……。」
 「まあ左様でございますか」と婦人は微笑して、「格別名乗るほどの人間ではないので、控えて居りましたが、私は実は櫻林と申すものでございます。生前は東京に住んでおりまして、今から約十年以前に身罷りました。夫も、一人の子供も、まだ現世に残っております。」
 こんなことを語り合っている中に、部屋の空気は次第に和やかになりました。それにしても、地上生活中に一面識のなかった人間が、こちらの世界で、一つの卓子を囲んで話し込んでいるのですから、少々勝手が違い、随分妙だなあと思わぬでもなかったです。」

 話題はやがて信仰問題に向けられました。
 「あなたは、熱心なキリスト信者だと承りましたが」と僕が切り出しました。
 「ついては、あなたの死後の体験を率直にお話しして戴けますまいか。僕などは、何の予備知識もなしに、突然こちらの世界に引越し、従って、最初は随分戸惑いしました。それかといって、既成宗教も随分うそと方便が多過ぎるようで、かえって帰幽者を迷わすような点がありはせぬかと考えられます。どうせ、お互いに死んでしまった人間ですから、この際一つ思い切って、利害の打算や、好き嫌いの打算を棄てて、赤裸々の事実を、現世の人達に伝えてやろうではありませんか。幸い僕の母が、不完全ながら、僕の通信を受取ってくれますから、その点は頗る好都合です。もしも御遺族に何か言ってやりたいことでもおありなら、遠慮なくおっしゃってください。及ばずながら僕がお取次ぎします……。」
 「まあ、あなたはお若いのに、よくそんなことがお出来でございますこと。――いづれよく考えておきまして、お頼みすることもございましょう。――仰せの通り、私どもは堅いキリスト教の信者でございまして、殊に病気にかかってからは.一層真剣にイエス様の御手に縋りました。私のような罪深い者が、大した心の乱れもなく、安らかに天国に入らせていただきましたのは、全くこの有難い信仰のお蔭でございます。実は私は在世中から、幾度も幾度も神様のお姿を拝ませていただきました。一心にお祈りしておりますと、夢とも現ともつかず、いつも神さまの御姿が、はっきりと眼に映るのでございまして、その時の歓びは、とても筆にも口にも尽くせませぬ。そんな時には、私の肉体は病床に横たわりながら、私の魂はすでに天国に上っているのでございました……。」
 「なるほど」と菊地さんは心から感服して、
 「キリスト教も、なかなか結構な教えでございますな。臨終を安らかにすることにかけて、たしかに仏教に劣りませんな。……いや事によると、却ってキリスト教の方が優っているかも知れません。……それはそうと、あなた様の現在の御境遇は、どんな按配でございますか? 生前から、すでに神さまのお姿を拝んだ位ですから只今では、さぞご立派なことでございましょう・・・・。」
 「ところが、こちらへ来て見ると、なかなかそうでないから、煩悶しているのでございます。私が人事不省に陥っておりましたのは、どれほどの期間か、自分には見当もとれませんでしたが、とに角私は誰かに揺り起こされて、びっくりして眼を開けたのでございます。辺りは夕闇の迫ったような薄暗いところで、くわしいことは少しもわかりませんが、ただ私の枕元に立っている一人の天使の姿だけは、不思議にくっきりと浮かんでおります。
 「はて、ここはどこかしら……。」
 ――そう私が心にいぶかりますと、先方は早くもこちらの胸中を察したらしく、「そなたは最早現世の人ではない。自分はイエス様から言いつけられて、これから、そなたの指導に当たる者じゃ……」と言われました。
 かねがね死ぬる覚悟は、できていた私でございますから、その時の私の心は、悲しみよりも、むしろ歓びと希望とに充ちていました。
 私は言いました、「天使さま、どうぞ早く私を神様のお側にお連れ下さいませ。私は穢れた現世などに、何の未練もありませぬ。私は早く神さまのお側で、御用を勤めたいのでございます。」
 ――すると天使は、いとど厳かなお声で、「そなたの見苦しい身を以ては、まだ神のお側には行かれぬ。現在のそなたに大切なことは、心身の浄化じゃ。それができなければ、一歩も上には進めぬ……」とおっしゃられるのでした。
 これが実に私がこちらの世界で体験した、最初の失望でございました。イエス様にお縋りさえすれば、すぐにも神さまの御許へ行かれるように教えられていたことが、嘘だったのでございます。私の境遇は天国どころか、暗くて、さびしくて、どう贔屓目に見ましても、理想とは遠い遠いものなので、それからの私は、随分煩悶いたしました。のみならず、一たん心に疑いが生ずると同時に、後に残した夫のこと、子供のことなどが、むらむらと私の全身を占領して、居ても起ってもおられなくなったのでございます。つまり私の信仰は、死ぬるまでが天国で、後はむしろ地獄に近かったのでございました。
 私を指導してくださる天使さまも、こう言われました。「そなたは煩悶するだけ煩悶し、迷うだけ迷うがよいであらう。そうするうちに、心の眼が次第に開けてくる・・・・・。」
 ――最初は随分無慈悲なお言葉と、怨めしく思いましたが、しかしそれが矢張り真実なのでございましょう。私は天使様の厳格な御指導のお蔭で、近頃はいくらかあきらめがつき、一歩々々に、心身の垢を払おうと考えるようになりました。」

  浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 8-14 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 今度は、熱心なキリスト教信者の話です。新樹氏の家の応接間で菊地さんと共に、30歳くらいの女性で、きりっとした男性風の桜林さんを迎えて、一種の宗教座談会のようであったと新樹氏は報告しています。桜井さんに向かって、「もしも御遺族に何か言ってやりたいことでもおありなら遠慮なくおっしゃってください。及ばずながら僕がお取次ぎします」と言っていますが、全くあの世とこの世との間の壁を感じさせません。

 桜林さんの場合も、やはり「思い込み」なのでしょうか。次のような話を思い出します。――ある熱心なキリスト教信者の家が洪水で危険に曝されました。救助隊の人が来て避難するように告げましたが、その人は、私は神に守られているから大丈夫だといって、動こうとしません。洪水がひどくなって、また避難を勧められましたが、やはり聞き入れませんでした。さらに3度目に避難を強く呼びかけられても、避難しようとせず、とうとうその人は洪水に飲み込まれて死んでしまったのです。その人は、死んだ後、神様になぜ助けてくれなかったのかと、食ってかかりました。神様は言いました。「私は3度も助けに行ったのに、あなたはなぜ聞き入れなかったのかね」と。(2014.04.11)

 44. 二、帰幽後の一キリスト教徒 (その2)

 「あなた様の毎日の御修行は、主にどんな御修行でございますか?」と菊地老人が、更に追究しました。
 「それはイエス・キリストの御神像に向かって、精神を集中するのでございます。つまり早く神様のお側に行けるようにと、わき目もふらず念じつめるのでございまして……。」
 菊地老人は、いかにももっともだと言わぬばかりの面持ちで僕を顧み、
 「新樹さん、形式は違いますが、これは矢張り精神統一の修行ですな。どうもこれより他に、格別の修行法はないものと見える……。」
 「全く御意見の通りですね」と僕も賛成しました。
 「要するに形式方法は末で、精神の持ち方が肝腎なのでしょうね。――ところで櫻林さん。あなたは今でも、イエス様を、神さまのたった一人のお子さんだと考えて居られますか。」
 「そう信じております。イエス様は世界万民の救世主、私どもの罪を償ってくださる、貴いお方でございます……。」
 「それは少し違っておりませんか」と僕は思い切って言ってやりました。
 「イエスは二千年前に、地上に現われた普通の人間、またキリストは、人類発生前から存在する宇宙の神さま、日本でいえば、つまり高天原をお治めになる天照大御神様です。人間と神様とを混線して取扱うのは、既成宗教のすべてが陥った弊害で、これはわれわれとして、大至急訂正を要する問題です。無論僕はイエスを心から尊敬します。が、同じ意味に於いて、僕は釈迦も、孔子も、ソクラテスも、弘法も、日蓮も皆尊敬します。なかでも僕は神武天皇様を、心から崇拝します。理想的な国家の体系、理想的な惟神の大道を確立されたお方は、世界のどこにも他にないですからね・・・・・。日本の教えの特色は、少しも混ぜものがないことで、神はどこまでも神、人はどこまでも人、載然と両者を切り離し、しかも両者の間に、しっかりと神人感応の道をつけてあるから、素晴らしいのです。あなたも、早くイエスを神の唯一の子と考えるような心の迷いからお覚めなさい。折角の精神統一が、そんなことでは台なしになります。いつまで経っても、あなたのまわりが暗いのは、たしかその為です。僕などは、生前信仰問題などには、まるで無頓着な呑気者で、その為にこちらへ来てから、一時大いにまごつきましたが、幸い歪んだ先入主がなかったばかりに、割合に早く心眼が開け、少しはこちらの世界の事情もわかってきました。キリスト教にも、たしかに良い個所はありますが、どうも少し混ぜものが多過ぎます。櫻林さんも、その混ぜものだけはお棄てなさい……。」
 「それでも私は、現在イエス様から遣わされた天使様さまのお世話になって居る身でございます。私にはそれに背く気にはまだなれません。」
 「僕は、そのご遠慮には及ばないかと思いますね。あなたが受け入れないので、あなたの指導者は、やむをえず西洋式の天使に化けているのですよ。僕の指導者も、あなたの指導者も、別に変わったものではないと思いますね。」
 「そうでございましょうかしら・・・・」と桜林夫人は、まだ首肯しかねる様子でした。
 「もしあなたのおっしゃるところが事実だとすれば、私の信仰は、根本から覆ってしまいます。どうかもう少し考えさせていただきます。」
 桜林さんは、気の毒なほど萎れ返って考え込みました。仕方がないので、僕と菊地老人とで、さまざまに慰め励まし、ともかくも、よく考えた上で、態度をきめるがよかろうと言って、その日の会見を打切りました。
 夫人が帰った後で、僕は少々手きびしく言い過ぎはしなかったかと、内々心配していましたが、そう案じたものでもなく、間もなく、夫人からうれしい音信がありました。その内容は大体こんなものでした。――

 「私は桜林でございます。先日は大そう結構なお話を伺わせていただき、心からお礼を申上げます。あれから帰りまして、私は早速私の天使様にすべてを打明け、あなたは、果してイエス様のお使者なのでございますか、とお訊ねしました。最初は何ともお答えがないので、私としては気が気でなく、むきになって再三問い詰めますと、『そなたの心が、そう荒んでいては駄目である。先ず心を鎮めよ』と仰せられ、そのままぷいと姿を消してしまわれました。私は何ともいえぬさびしい気分で、イエス様の御神像の前にひれ伏してお祈りをしている中に、だんだん心が落ち着いてまいりました。すると天使さまは、再び私の前にお姿を現わし、慈愛のこもった眼差しで、じっと私を見つめられながら、こう言われました。『実は自分は、イエスの使者でも何でもない。自分は大国主の神から、そなたの指導役として遣わされた龍神である。そなたは龍神ときいて、びっくりするであらうが、実はそなたに限らず、こちらの世界で、人間の指導に当たるのは、何れもみな龍神なのじゃ。日頃そなたは、頻りに神のお側に行きたいと祈っているが、あれは果敢なき夢じゃ。各自は器量相応の境遇に置かれ、一歩々々向上せねばならぬのじゃ。修行さえできればどんな立派な所へも行かれる・・・・・。』――その時ふと気がついてみると、今まで西洋の天使のような姿をされていたお方が、いつの間にやら、白い姿の六十ばかりの老人になって居られました。これを見ては、さすがの私も、漸く多年の迷夢から覚めました。矢張りあなたのおっしゃられたことが、正しかったのでございます。これから私も、元の白紙の状態に戻り、一生懸命に勉強して、一人前の働きのできるよう心がけます・・・・・。」

 僕はその後、まだ一度も櫻林さんとは面会していませんが、何れ機会をみて、訪問してみようかと考えて居ります。その際何か材料があったらまた通信します。今日はこれで……。

   浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 8-14(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 イエスはたった一人の神の子ではなくて、地上に現われた普通の人間であると新樹氏が言っているのはその通りでしょう。また、生前、信仰問題などには、まるで無頓着であった新樹氏が、歪んだ先入主がなかったばかりに、霊界では割合に早く心眼が開けたと言っているのには注目させられます。

 桜林さんが天使様と思っていたのは実は龍神で、霊界では、まず龍神が人間の世話をするのだと、ここでは教えられています。さらに、霊界では、ただ神の側に行きたいと祈るだけではだめで、誰でも「器量相応の境遇に置かれ」て、一歩々々向上せねばならないとも言われていますが、私たちも、改めて、霊界が厳しい階層社会であることを認識しなければならないようです。(2014.04.18)

 45. 三、幽界人の富士登山 (その1)

 ある日、母の守護霊さんから、「近いうちにあなたの母さんについて富士登山をするから、あなたも御一緒になすっては」との通信がありました。僕は生前に、一度も富士登山ができずに、こちらの世界へ引っ越してしまった人間なので、この勧誘には、少なからず感興を催しましたが、自分でもいろいろ考え、また僕の守護霊とも篤と相談した結果、母の一行とは別に、僕達二人きりで出掛けることに話がまとまりました。人間の体に憑って登山すれば、俗界の事情はよくわかるかも知れないが、それでは自然幽界の事情にはうとくなり、これもあまり感心しない。この際むしろ、純粋の幽界人として、富士山の内面観察を試みることにしようというのが、僕達の眼目だったのです。従って僕達の方が、母の登山よりも却って二、三日早くなりました。何しろこちらの世界の仕事は、至極手っ取り早く、思いたったが吉日で、現世の人間のように、やれ旅仕度だ、やれ時日の打合わせだ、といったような面倒くさい事は、一つもないのですからね。

 ところで、僕の守護霊さんも矢張り僕と同じく、生前一度も登山の経験がなかった人です。それで今度は思う存分に、登山気分を味わうべく、二人ともせめて現世の人間らしい恰好を造って行こうではないかということになりました。念のために、その事を指導役のお爺さんに申上げると、
 「それは面白いことだ。身体を造って登ることも、たしかに一理あるように思う」と大へんに力をつけてくれました。
 先ず僕達は服装の相談をしました。僕は矢張り洋服姿で出掛けるつもりで居ると、守護霊さんは、しきりに白衣を着るがよいと勧めました。
 「霊峰に登るには、洋服などはいけない。頂上には尊い神様もお鎮まりになって居られる。これは是非清らかな白装束でなければなるまい。」
 「あなたは白装束になさるが宜しいでしょうが」と僕は抗議を申立てました。
 「僕は生れた時代が違いますから、洋服で差支えないと思います。洋服にしないと、僕にはどうも登山気分が出ないのです。まさか洋服を着ても、罰は当たらないでしょう。」
 とうとう僕は、日頃愛用の洋服を着て行くことにしました。靴は軽い編上げ、脚にはゲートル、頭には鳥打帽という、頗るモダンな軽装です。守護霊さんは、これは勿論徳川式、白衣を裾短かにからげ、白の脚絆に白の手甲、頭には竹笠といった純然たる参詣姿です。
 「こりゃ大分不似合な道連れじゃ……。」守護霊さんは見比べながら、しきりにおかしがっておられました。
 さていよいよ出掛けようとした時に、僕はふと金剛杖のことを思いつきました。
 「仮にも身体を造って山に登る以上、別にくたびれはしないとしても、一本杖が要りますね。」そう僕が発議すると、守護霊さんも、
 「なるほど、そういうものがあった方がよいであろう」ということになり、それで、早速お爺さんにお願いし、めいめいに一本ずつ杖を取寄せて貰いました。
 「この杖は有り難いもので、ただ一概に木の棒と思ってはよくないぞ」とお爺さんから注意がありました。
 「これは魔よけになるもので、そち達にも、やはりこれがあった方がよいのじゃ。うっかりして悪霊に襲われぬとも限らぬからな……。」

 他にも、僕達が身に付けたものがありました。それは例の楽器で……。守護霊さんは、いつも愛用の横笛を帯にさし込み、また僕はハーモニカをポケットにしのばせました。何しろ僕達は、登山といよりも、むしろ修行に出掛ける意気込みですから、期せずして、二人の心は、日頃精神を打ち込んでいる仕事に向かった訳なのです。

      浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 18-21(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 この世の多慶子夫人が富士登山をするのに霊界の守護霊・小桜姫が付いていくことになって、新樹氏にも一緒に登山しないかという誘いがあったというのには、霊界の不思議を感じさせられます。もし新樹氏がそれに同意して同行しておれば、新樹氏から、この世のお母さんと一緒に富士登山をしたという珍しい話が聞けたものを、とちょっと残念な気もしないではありません。

 結局、新樹氏は守護霊の佐伯信光氏と初めての富士登山をすることになるわけですが、そのために「現世の人間らしい格好を」造りました。登山のための服装なども詳しく伝えられています。魔よけの金剛杖をそれぞれに持ち、佐伯氏は愛用の横笛を、新樹氏はハーモニカをポケットに忍ばせて出発することになったこの富士登山の模様を、今回から4回に分けて載せていきます。(2014.04.25)

  46. 三、幽界人の富士登山 (その2)

 仕度もすっかり整いましたので、いよいよ出発といっても、そこは現世のような、面倒臭い出発ではありません。ただ心で何所と目標さえつければ、すぐそこへ行っているのだから、世話はありません。僕達の選んだのは、例の吉田口で、ちょっと現界の方をのぞいてみると、北口とか、何とか刻みつけた石標があったようでした。その辺には、人間の登山者も沢山おり、中には洋服姿の人も見受けました。僕は守護霊さんに、それを指摘しながら、
 「御覧なさい、近頃の登山者はこんな恰好なのです。僕ばかりが仲間外れになってはいません……。」
 「なるほどな」と守護霊さんも非常に感心して、
 「近頃洋服が流行ると承っていたが、斯くまでとは思わなかった。これも時勢で致し方があるまい……。」
 どうせ人間の方から、僕達の姿は見えはしないのだから、どこを通っても差し支えはない筈ですが、しかし人間と一緒では、何やら具合がわるいので、僕達は普通の登山路とは少しかけ離れた、道なき道をぐんぐん登って行きました。そこは随分ひどい所で、肉体があっては、とても登れはしませんが、僕達はいわば顕幽の境を縫って行くのですから、何やら地面を踏んでいるようでもあり、また空を歩いているようでもあり、格別骨も折れないのです。その感じは一種特別で、こればかりは、ちょっと形容ができません。まあ夢の中の感じ――ざっとそう思っていただけばよろしいでしょう。なに金剛杖ですか、……矢張り突きましたよ。突く必要はないかも知れないが、しかし突いた方が、矢張り具合がよいように思われるのです……。
 しばらく登ると、そこに一つのお宮がありました。勿論それは幽界のお宮で、つまり現界のお宮の、一つの奥の院と思えばよいわけです。そこには男の龍神さんが鎮まっておられましたので、僕達は型の如く拍手を打って、祝詞を上げ、「無事頂上まで参拝させて戴きます・・・・・」とお祈りしました。万事現世で行なうのと何の相違もありません。
 それから先はひどい深山で、大木が森々と茂っており、いろいろの鳥がさえずっていました。なに、それは現界の鳥かとおっしゃるのですか。そうではありません。すべてが皆幽界のものです。僕達には現界の方は、たまにちらりと見えるだけで、普通はこちらの世界しか見えません。ですから鳥の鳴き声だって、現界では聞いたことのないのが混っています。顕と幽とは、いわば、つかず離れず、類似の点があるかと思えば、また大へん相達している個所もあり、僕達にも、その相互関係がよくわかりません。うっかりしたことを言うと、とんだ間違をしますから、僕はただ実地に見聞したことだけを申上げます。理屈の方は、どうぞ学問のある方々が、よくお考えください・・・・・・。
 やがてある地点に達しますと、そこには、ごく粗末な宮らしいものが建っていました。それがどうやら、山の天狗さんの住居らしいので、守護霊さんと相談の上で、一つ訪問する事にしました。僕はお宮の前に立って拍手を打って、「こちらは富士の御山に棲われる、天狗さんのお住居ではありませんか?」と訊いてみたのです。が内部はひっそり閑として、何の音沙汰もない。
 「はて、これは違ったかしら……。」僕達が小声でそんなことを言っていると、俄かにむこうの方でとてつもない大きな音がする。何かと思って、びっくりして顔を見合わせている間に、何時何所をどう入ったものか、お宮の内部には、何やらがさこそと人の気配がします。
 「矢張り天狗さんが戻って来たのだな。今の大きな物音も、たしかにこの天狗さんが立てたに相違ない……。」

 僕はそんなことを思いながら、そっと内部をのぞいて見ると、果して一人の白髯を生やした、立派な天狗さんが、堂々と坐り込んでいました。その服装ですか……衣服は赤煉瓦色で、それに紫の紐がついており、下には袴のようなものを穿いていました。いうまでもなく、手には羽団扇を持っていました。

      浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 21-24 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 新樹氏と守護霊の佐伯信光氏は、吉田口から富士山へ登ることになりました。「ちょっと現界の方をのぞいてみると」などと新樹氏は気軽に言っていますが、こんな調子でこの世の様子を見ているのでしょうか。「どうせ人間の方から、僕達の姿は見えはしないのだから」などとも言いながら、肉体があってはとても登れそうもない「道なき道をぐんぐん登って」行く二人の姿は、私たちには想像するほかはありません。

 新樹氏の説明で、富士登山で聞える鳥の鳴き声なども、「現界では聞いたことのないのが混っています」とあるのは興味深く思われます。歩くという動作も、「いわば顕幽の境を縫って行く」ようなもので、「何やら地面を踏んでいるようでもあり、また空を歩いているようでもあり、格別骨も折れない」と述べられています。そして、新樹氏と佐伯信光氏は、白髯を生やした、立派な天狗さんに逢うことになりました。(2014.05.02)

  47. 三、幽界人の富士登山 (その3)

 僕たちは扉を開けて、丁寧に挨拶を述べましたが、あちらは案外やさしい天狗さんで、
 「まあ上れ!」というのでした。
 「いや、ただご挨拶だけさせていただきます。先刻はお不在のように拝見しましたが……。」
 「わしは宮の内部にばかり引き籠ってはいない。或る時は樹木のてっぺんに居たり、また或る時はお山の頂上まで行ったり、これでなかなか忙しいのじゃ。」
 「この宮にはたった一人でお住まいですか?」
 「いや、眷族が多勢居る。わしが一つ口笛を吹けば、皆一散に集まって来る……。」
 「そんな光景を、一度拝見させていただくと、大へんに結構だと思いますが……。」
 「それはちょっと出来ん。・・・・・みな用事を帯びて他所に出ているからな。」
 天狗さんは、口笛だけはどうしても吹いてくれませんでした。それで僕は話題をかえて、
 「あなた方からご覧になると、一体僕たちは何者に見えますか?」
 天狗さんは、最初僕達二人を、普通の人間かと思ったらしく、しきりにじろじろ見ていました。僕の方でも、なるべくそう思わせるように努め、さも現世人らしく振舞いました。
 が、そこはさすがに功労を経た天狗さんだけあって、一種の術を心得て居り、さかんに九字を切って、何やら神様に伺いをたてている様子でした。やがてずかずかと僕達の方に近寄り、先ず守護霊さんの両手をつかんで、ぐっと引寄せ、下から上へと身体中を撫でました。つづいて僕の事もそうしてみて、何やらにたっと笑いました。
 「いかがですか、僕たちの正体がわかりましたか?」
 「いや、神様に伺ってよくわかった。あなた方は、矢張り幽界のもので、修行も相当できているが、今回見学のために、わざわざ身体を造って、富士登山をしたものじゃそうな。わしも最初から、どうも様子が少し変だとは思っていた。何やら妙に親しみがあって、威張りたいにも威張れなかった。地上の人間なら、一つ大いに嚇かしてやるところなのじゃがな。あははは……。」
 「どうぞお手柔らかに・・・・・。実は僕たちは、これでも少しは天狗界の事情を知って居り、随分不思議な術を見せて貰ったこともあります。」
 「あぁ左様か……。わしにも術があるのだが、この山では禁じられているから駄目じゃ。」
 天狗さんは、よほど僕たちに対して好奇心を起したらしく、頻りに根掘り、葉掘り、僕たちの身元調べをしました。別に隠す必要もないので、僕たちも経歴のあらましを物語り、二人とも音楽に趣味をもっていることを話すと、天狗さんはますます乗り気になりました。
 「是非あなたの笛をきかせてもらいたい。わしは笛が大好きじゃ。」
 「ただではこの笛は吹けません」と僕の守護霊さんも、そこはなかなか如才がありません。
 「あなたが口笛を吹いて下さるなら、私も笛を吹きましょう。」
 「これは困った。いま口笛を吹く訳にはいかぬ。ではあなた方の帰り道に、また立寄ってください。その時に大いに口笛を吹いて、眷属を集めてお目にかけるから……。」

 とうとう笛も口笛もお流れになってしまいました。帰りには別の道を通ったので、従ってこの天狗さんとも逢わず、今以てこの話はそのままになっております。そのうち機会があったら、わざわざ出かけて行ってもよいと思っています。概して天狗というものは、気持がさっぱりしていて、そして案外に無邪気で、こちらがその気分を呑み込んで交際しさえすれば、すこぶる与し易いところがあるようです。天狗と人間との交渉は、相当密接なようですから、今後もせいぜい気をつけて、報告することにしましょう。

      浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 24-26 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 作家の佐藤愛子さんが霊的な師と仰いでいた相曾誠治氏は、神界から来た人といわれていました。その相曾氏は、毎年7月に富士山頂まで日帰りで登り、山頂で神事を行なって日本と世界の平和を祈願していたのだそうです。80代半ばの高齢な氏が、日帰りで富士山の登山下山ができるわけを佐藤さんが訊くと、「天狗さんが助けてくれますので」と、相曾氏は答えていました。(『私の遺言』 195頁)

 相曾氏は、「登る時はみんなで後押しをしてくれますのであっという間に山頂に行き着きます。でもその姿は人の目にはみえません」と言っていたのですが、この新樹氏の天狗さんとの対話の部分で、相曾氏を助けていた天狗さんたちのことを思い出しました。私たちには見えなくても、天狗さんはいますし、天狗さんの住居のお宮もあるのですね。そして、ここでもこの世とあの世との、顕と幽との「つかず離れず」の深い関係を考えさせられます。(2014.05.09)

  48. 三、幽界人の富士登山 (その4)

 僕たちは天狗さんと別れて、また登り出しました。時々現界の登山者達の方をのぞいて見ましたが、何れも気の毒なくらいくたびれて、気息をはずませていました。こちらはその点一向平気なもので、平地を歩くのとさして変わりません。
 「これではあまり楽すぎて、登山気分が出ませんね。」
 「脚につけた脚絆の手前が、恥かしいくらいのものじゃ。」
 ――僕達はそんなことを語り合いました。

 森林地帯が過ぎて、いよいよ禿山にかかろうとする所で、僕達はともかくも岩角に腰をおろして、一と息をすることにしました。
 「やれやれくたびれた。どっこいしょ……。」― 僕は冗談にそんなことを言いましたが、勿論ちっともくたびれてはいません。こんな場合、現界の人なら煙草でも吸うとか、キャラメルでもしゃぶるとかするところでしょうが、僕達にはそれもできません。あっけないことおびただしい。
 あまり手持無沙汰なので、一つ音楽でもやろうということになり、守護霊さんは腰間の愛笛を抜き取り、僕はポケットのハーモニカを取り出しました。これまで僕は何回となく、守護霊さんと合奏しておりますから、近頃はとてもよく調子が合います。できることなら、一度皆さんに聞かせてあげたいのですがね……笛とハーモニカの合奏も、なかく悪くないものです……。
 それはとにかく、僕の守護霊さんが、小手調べのために、笛を唇に当てて二声三声、ちょっと吹き鳴らした時です、思いもよらず、どこか遠い所から、りゅうりょうとした笛の音が聞えてきました。僕達はびっくりして、互に顔と顔とを見合わせました。
 「登山者の中に、誰か笛を吹くものがいるのかしら……。」
 「いや、あれは人間界の音色ではない」と守護霊さんは、じっと耳をすませながら、
 「人間界では、あんな冴えた音が出るものではない。たしか神さんの手すさびに相違ない……。」
 僕達は合奏どころでなく、しきりにあれか、これかと臆測をめぐらしましたが、とうとう守護霊さんが統一をして富士山守護の神霊に、その出所を伺うことになりました。すると直ちにむこうからお知らせがありました。
 「只今吹奏されたのは、富士神霊のお附の女神である。そなたの笛が先方に通じ、お好きの道とて、うっかり調子を合わせられたものであろう。……」
 それと知った時に、僕は有頂天になりました。―
 「やあ、こいつは面白いことになってきた。守護霊さん、一つ是非その女神さんに、こちらへお出でを願って、合奏していただきましょう。」
 「それもそうじゃ。一つあちらへ申上げてみることに致そう。遠方からの合奏では、何やら物足りない。」
 さすがに僕の守護霊さんは、音楽に生命を打ち込んでいる人だけあって、こんな場合には、少しも躊躇しません。早速その旨をあちらに申込んで快諾を得ました。

 待つ問程なく、間近かにさらさらという衣ずれの音がします。見ると一人の女神さんが立っておられました。年の頃は凡そ二十七八、頭髪はてっぺんを輪のように結んで、末端を背後に垂れ、衣裳は蝉の羽に似た薄もの、大体が弁天様に似たお姿でした。顔は丸顔、そして手に一管の横笛を携えておられましたが、それは目ざめるばかりの朱塗の笛でした。
 僕は文学者でないので、うまく表現ができませんから、一つ母の霊眼に見せておきます。後でよく訊いてみて下さい。とにかく現世では、ちょっと見られそうもない、気高い風釆の女神さんでした。
 女神さんの方では、よほどわれわれを不審がっておられるようでした。
 「先刻は大そうよい音色を耳にしましたが、あれはあなた方がおやりなされたのですか?」
 「お褒めに預かって恐縮いたします」と守護霊さんが恭しく答えました。
 「私の笛などはまだ一向未熟、とても神さまの足元にも寄りつける程ではござりませぬが、ただ日頃笛を生命としております以上、せめては一度お目にかかり、直接お教えにあずかり度く、もったいないこととは存じながら、ついあんな御無理を申上げた次第・・・・・。つきましては、甚だ厚かましうございますが、是非、何とぞ天上の秘曲の一つを、お授け下さいますように……。」
 熱誠をこめた守護霊さんの頼みには、女神さんもさすがにもだし難く思われたものとみえ、傍の岩角に軽く腰をおろして、心静かに、妙なる一曲を吹奏されました。残念ながら、最初僕には、その急所がよくわからなかったが、そこはさすが本職、僕の守護霊さんは、ただの一度で、すっかり覚え込んでしまい、女神さんが吹き終わると、今度は入れ代わって、その同じ曲を、いとも巧みに吹いてのけました。
 「あなたは、稀に見る楽才のあるお方じゃ……。」
 女神さんはそうおっしゃって、ひどく感心しておられました。
 「只今のは、あれは何と申す曲でございますか?」
 僕がそう訊ねると、女神さんはにこにこしながら答えられました。
 「これは富士神霊様が日頃お好みの曲で、「八尋の曲」と稀えられておりまする。大そういわれの深いもので・・・・・。」
 この女神さんは、至って口数の少ない方で、細かいことは何も教えてくれませんでした。それで別れ際に、こんなことを言われました。
 「あなた方も、いずれ頂上へお詣りであろうから、その際は富士神霊様にお目通りをさせて上げましょう……。」
 そう言ったかと思ったら、いつとはなしに姿がぷいと消えてしまいました。

 とにかく、この時の守護霊さんの歓びといったら大したもので、女神さんが去られた後で、何回となく「八尋の曲」の復習をやり、僕にも丁寧に教え込んでくれました。お蔭で僕にもーハーモニカで、立派に合奏ができるようになりました。

     浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 27-30 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 登山中の新樹氏と守護霊の佐伯信光氏は、平地を歩くのと変わらないくらい楽なので「これではあまり楽すぎて、登山気分が出ませんね」などと言っています。時々現界の登山者たちをのぞいて見ると、みんな気の毒なくらいに疲れて息をはずませているわけですから、これは不思議なコントラストです。「やれやれくたびれた。どっこいしょ……」と、新樹氏が冗談を言って疲れたふりまでしているのには微笑を誘われます。

 手持無沙汰で、新樹氏と佐伯信光氏はハーモニカと笛で合奏することになりました。佐伯氏が小手調べに、笛を二声三声、吹き鳴らした時に、どこか遠い所から妙なる笛の音が聞えてきて、その奏者の富士神霊お附の女神さんと逢うことになります。年のころは27,8歳の丸顔で、「現世ではちょっと見られそうもない気高い風釆の女神さん」でした。新樹氏はその女神さんの姿を「うまく表現ができませんから一つ母の霊眼に見せておきます」と言っていますが、そんなことも出来るのですね。(2014.05.16)

 49. 四、霊界の音楽修行

 母の守護霊の修行談は、僕も相当敬服させられております。こちらの霊界へ来た人の中にも、なかなかあれくらい生一本に、あれくらい脇目もふらすに、修行三昧に浸っているのは、そうざらにはないようです。それにつけても、僕はふと考えました。母の守護霊があんなに修行しているくらいなら、僕の守護霊だって、何か苦心談の一つや二つはあるだろう。一つ訊いてみようかしら……。
 早速守護霊に当たってみると、果していろいろ話があるとの事でした。しかしとても一度には物語れないから、今回はその中の一端・・・・・音楽修行の話をしようといって次の物語をしてくれました。母の守護霊とは、すっかり行き方の違っているのが、幾らか面白いところだと思いますが、ただ通信機閲がやはり僕の母の身体なので、うまくこちらの気分が出るかどうかが気がかりです。うっかりすると、肝腎な急所が、途中で消えて無くなってしまいそうで。
 念のために申上げておきますが、僕の守護霊は佐伯信光といって、僕と同じく全く若年…‥享年二十九で死んだ人で、今も矢張り若い顔をしています。指導役のお爺さんとなると、僕達とは段違いの龍紳さんですから、何となく気が引けますが、守護霊の方は、何だかこう気の合った友達、といっては相済まないが、大へんに親しみがあって、どんなことでも、遠慮なく談話ができます。性質は至ってやさしい、多趣味の人で、殊に音楽がもともと本職ですから、その点にかけては、とても僕達の及ぶところではありません。僕がいかに守護霊の感化で音楽が好きだといって、片手間の余技として、少しばかり噛っただけですから一向駄目です。こんなことになったのも、畢竟時代の影響というものでしょう。僕だって、僕の守護霊のように、あの悠長な元禄、享保時代に生れていたら、或はそっちの方に、少しは発達していたかしれません。いや余談はさておいて、早速守護霊の修行の話に取りかかります。なにしろ僕の守護霊は、会身全霊を音楽に打ち込んだ位の人ですから、こちらの世界でも、非常に閑静極まるところ住んでおります。これがその談話です。――

 死ぬるまで、音楽で身を立てようとしていたのが、病のために中道に倒れたのですから、残念で残念でたまらなかった。勿論帰幽後しばらくは、うやむやに過した。精神が朗らかにならなければ、とても音楽の修行などは、思いもよらぬことなのである。が、指導霊のお世話で、すっかり正気を取り戻すと同時に、私が真っ先に考えたのは、こちらの世界で、もう一段も二段も、笛の研究をしてみようということであった・・・・・・。
 それで早速指導霊に向かい、勝手ながら私には笛の修行をさせていただきたいと願い出た。それはきき届ける、とのことであったので、いろいろ指導霊とも相談の上、こういう仕事は、深山の方が、一番音色も冴えてよかろうという訳で、直ちにその段取をして貰うことになった。
 私は指導霊に伴われて、とある深山に分け入ったが、意外にも、それが自分の予想したよりも、はるかにさびしい所なので、内心少々気味が悪くなり、自然、顔にもさびしそうな色が現われたのであろう、早速指導霊からたしなめられた。そんな鈍い決心では、修行などはとても駄目である。さびしいといって、時々はわしも見まわりに来てやるし、またそちの守護霊も世話してくれる。それから昔の笛の上手な者も、稽古をつけてくれることになっている。……しつかり致せ!
 私はこれに励まされ、自分で自分を叱りつけると、間もなく心が落ついてきた。それから程よき地点を選んで、そこに修行場を建てて貰ったが、それは一人住まいにしては、大へん広々とした、立派な家屋であった。すべてが白木造りで、周囲に縁がついており、そして天井が甚だ高い。これでないと、笛の響きがうまく出ないので……。また部屋の広いのは、一つには師匠に来ていただいたり、笛の仲間を招いたりする都合もあるからで……。
 私には生前非常に愛玩していた一管の笛があった。それは私の死んだ時、棺の中に納めてもらったが、いよいよ修行場へ落ち着くと同時に、私はその笛を取り寄せてもらった。笛そのものに、何の相違もないが、しかしこちらで吹いてみると、その音色は生前よりも、はるかに冴えて感じた。殊に現界の真夜中時と思われる頃になると、あたりはしんしんとして、笛の音は満山に響き立った。どうしてこんな良い音が出るのか、これが生前出てくれたならば……。いつもそう思われるのであつた。
 私が自分の生命を、笛一つに打ち込んで、われをも忘れて吹きすさんでいると、天狗達がそれをききつけて、よく遊びに来る。多い時は五人も来る・・・・。天狗の中には、笛の心得のあるのがある。私が天狗に教えてやることもあるが、時とすれば、言うにいわれぬ秘伝を、天狗から教えられる場合もある。また笛につれて、天狗達が舞うこともある。風に翻る華麗な衣裳、さし手引く手の鮮かさ、なかなか以て、地上では見られぬ光景である。
 時としては、精神統一中に、いずこともなく、音楽が聞えてくることがある。それはとても妙なる楽の音で、これが私にとって、どんなに良い修行になるかしれぬ。そうした場合に、自分もよく笛をとり出して合奏してみるが、その楽しみはまた格別である。殊に生前ヒチリキの名人であった人が、よく私と合奏をやる……。

 大体これが僕の守護霊の音楽修行の談話です。僕もそんな話をきかされると、少々羨ましくなりますが、残念ながら、僕の素養が足りないので、とても僕の守護霊のように、うまい訳にはいきそうもありません……。

    浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 31-35(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 私たちには、一人ひとりに守護霊と指導霊がついているといわれますが、ここに出てくる「母の守護霊」というのは小桜姫のことです。新樹氏の守護霊は29歳で亡くなった佐伯信光氏で、「指導役のお爺さん」というのが指導霊だと思われます。佐伯信光氏は笛の修行をするのにいろいろと直接、指導霊から指図をうけていたようです。広い修業場を建ててもらって、指導霊から「わしも見まわりに来てやるし、またそちの守護霊も世話してくれる」と言われています。

 佐伯信光氏には生前非常に愛玩していた一管の笛がありました。その笛は死んだ時、棺の中に納めてもらったのですが、修行を始めるにあたって、その笛を取り寄せてもらったと言っています。愛玩していた笛を再び手にして、それを吹いてみると、その音色は生前よりもはるかに冴えた感じで、時には笛の音にあわせて天狗達が舞うこともあり、「さし手引く手の鮮かさ、なかなか以て地上では見られぬ光景である」と述べられているのには、私たちも想像をかきたてられます。(2014.05.23)

  50. 五、父の臨終を視る

 新樹は若くして大連に客死しましたが、其の事は前の通信にも掲げられてあります。当時彼の父は、告別式を執り行うべく大連に赴いたその留守中、私は中西霊媒を通じて、彼に死の通告をしたのでした。この事も『新樹の通信』(その二)の序に書いてある通りです。
 爾来新樹を招霊して、彼と通信を試みることは、勿論彼の父の担任するところで、私が直接関係すべきものでもありませんから、十年近くも彼と会話を交える機会なしに過ごしました。然るに昨年彼の父もまた世を辞したので、ここに再び彼との通信を試みるべき廻り合わせとなりました。十年前に彼は、自身の死を私より通告され、十年後の彼は、父の死を私に語る立場となったのです。私は彼等父子の死に、何か因縁があるような気がせぬでもない。
 それは兎に角、この通信は、昭和13年3月24日、彼の母を通じてなされたものです。(浅野正恭)

     *****

 新樹は生前そっくりの、朗らかな調子で出て参りました。
 「新樹です! 伯父さん暫らくお目にかかりませんでした。皆さんお丈夫ですか。伯父さんも大分お年を取られたでしょう……。あれからもう十年近くになるということですから……。」
 「私もどうかこうか丈夫では居るが、お前の親父が私より早く亡くなってしまったので、私も実は弱った。一身一家の事だけならどうともするし、また成るように成っても行くだろうが、そうではないのだから……。」
 「父が亡くなる前に、母の守護霊から通信を受けましたので、僕は父が病気であることを承知して、びっくりしました。びっくりはしましたが、猶予して居る揚合でないので、神様にお願いもし、また母の守護霊とも一緒に、こちらで出来るだけの手段を尽くしました。が、定まる命数とでも申すのでしょうか、どうすることも出来ませんでした。
 で、僕としては、泣く泣くこちらへ来られる際の安らかならんことを、神様にお願いするよりほかに術がありませんでした。神様もそれは御承知下され、心配せずとも宜しいと申されましたので、其の方は安心することが出来ました。
 僕は今父の死に直面せざるを得なくなりまして、新たに死という問題を考えさせられました。自分の事などは兎に角、父はこれまで心霊研究に尽くして来て、その功績もまた特筆に値するものがあると信じます。僕は母の守護霊から、父のこれまでの事業に就いて聞かされ、それが未だ完成の域に達しておらぬ事も、承知しております。即ち事業半ばにして、父はこちらの世界へ来られるのでありますから、さぞ無念に思って居ることだろうと察して、僕は深く悲しんだのであります。
 父はこの心霊事業のために、艱難辛苦を重ねましたが、それでもまだ完成に至らなかったということは、この事業が如何に困難であるかを語るものでしょう。困難であるというのは、世の中から認められないということですが、それでも父は、ここまでやってきたので、堅い堅い不動の決心がなければ、到底出来る事ではないでしょう。僕はそれを思うと感慨無量、涙自ら下るのであります。」
 こう言い終わると、彼のかかった母の首は自然にうなだれ、両眼からは涙がほろほろこぼれるのでした。私は感傷的になっては困ると思い、
 「ここで私の考えていることを言うことにするが、お前の父は、二十年の長い間、心霊事業に全身全霊を打ち込み、悪戦苦闘を続け通してきた。しかし人間の生身には、およそ限りというものがあって、どこまでもそれを続けて行くことは出来ない。そしてこの事業が、右から左へと簡単に行ける性質のものでないことは、二十年の苦闘の末に、漸く基礎が出来たという程であるのをみてもわかる。基礎が出来てからは、後は順調にとんとん進んで行くかというと、そう平々易々な路も辿り得るものとは考えられない。そう考えることが出来れば甚だ結構なのだが……。
 そんな訳で、生きて居る限り、今後ともやはり悪戦苦闘を続けて行かねばならぬとみるのが、贔屓眼を離れての見方であると思う。そしてお前の父は、死の直前迄働き続けて来たので、人生の役目は充分に果たして居る。事業の完成に至らなかったことは、如何にも残念だが、それでも基礎工事だけは出来た。これからは後の人がやるべきで、いつまでも生き残って、悪戦苦闘を続けるようにと願うことは、私には何だか残酷なような気がせぬでもない。
 それは兎に角、親父はそちらの世界の人となったからには、今後はそちらの世界の研究を進めることになるだろう。そちらの世界には衣食住の心配がなく、いかに勉強しようとも、魂を磨く手段とこそなれ、悪戦苦闘などということがなくなるから、永遠の生命という方面から見れば、或は現世を離脱することが、一つの仕合せであるのかも知れぬ。人は遅かれ早かれ、どうせ現世を見捨てねばならぬのだから……。
 こんな一片の空理、――仏教家の悟りめいたことを言ってみたところで致し方がない。心霊研究事業は、人生現実の問題として、重要喫緊な一大事である。それが未だ完成を見るに至らずして逝いたということは、如何にも惜しい。が、何時かはこの問題が、世を風靡するに至るであらう。日本だって、何時迄もこれに無関心ではあり得ないことも明らかだ。そしてその基礎を築いた浅野和三郎の名は、永久に残ることになるだろう。逝いた者も、後に残る者も、それをせめてもの慰めとすべきであろう。
 「それはそうと、まだ父に会うことは許されまいと思うが・・・・・・。」
 「ここ当分は、親子肉親の関係から、会わしてくれません。しかしそれも当分のうちだと思います。その時は、僕自身の経験に基づいて、なにかと先導の役をつとめる積りで居ります。」
 「たとえ面と向かって会わないにしても、他所ながら父の様子は見ているのだろう、母の守護霊などと一緒に……。 それはそうとして、父の臨終の模様を見たことと思うが、今日はその様子を話して貰いたいのだが……。」
 「僕は近頃幸いに、霊視がきくようになりまして、父の臨終の模様を、神様にお願いして見せてもらいました。僕は自分の臨終を見ることが出来なかったから、一度他人の臨終を見たいと、日常思っていましたが、それが図らずも父の臨終を見ることになったのです……。
 先に申しました通り、僕は神様に、父がもう一度本復するようにとお願いしました。が、それは駄目でした。僕も仕方なく諦めて、この上はただ臨終の安らかなるよう祈りました。そして父の容態がどうなっているかを、神様にお願いして見せて貰いました。打見たところ、さして苦痛もなさそうで、こんな事で、こちらの世界へ来るのかしらと、実は不審に思った位です。ひょっとしたら、或は神様のお見込み違いではないか。――それなら甚だ結構なのだが……。それとも神様が僕を試しておられるのではないかなど、それからそれへと疑念が起って参ります。で、もう一度神様にお伺いしたのですが、神様はそうではない、こちらで守護しているから、そう見えるだけだ。これは最大の幸福であると仰られるのでした。
 親子の情と申しましょうか、そう神様から申されましても、僕には父が死ぬとは、どうしても思われませんでした。で、何遍も何遍もお伺いしましたが、同じ答しか得られなかったのです。致し方なく、僕も暫らく静観するよりはかありませんでした。そうするうちに、脈がだんだん細く弱くなり行くよう感じて参りました。
 僕は生前父から聞かされていましたので、早速父の守護霊と談じました。
 「父はこれ程も心霊を研究し、日本における心霊の開拓者であるから、何か一つ現世に偉大な置土産を残すことにしてはどうでしょうか。」
 と申しますと、父の守護霊は、
 「承知致した。それには幽体が肉体から離脱して行く様子を本人に見せるのが、一番よろしいと思う。」
 との事でありました。そしてその方面に取り掛かられたのでした。ですから、父も幽体の離脱する状況を、立派に見ている筈です。」
 「この前に既に招霊して、幽体離脱の状況を聴取し、雑誌に掲載することにしてある。」
 「そうですか? もう通信があったのですか。なかなか抜け目がありませんね。・・・・・僕なんか青二才は全く駄目です。ではこれから僕の見た幽体離脱の状況をお話ししましょう。
 「僕としては、残念ながら、自分の幽体の離れるさまを見ることが出来ませんでした。これは、畢竟、心霊知識に乏しかったためで、父の幽体離脱だけは見たいと思い、前にも申したとおり、神様にお願いいたしました。幽体離脱ということについては、生前父から聞かされたことはありましたが、詳しいことなどもちろん存じません。それで父の場合には、亡くなる時間がちょっとあったようでしたね。父はそれまで下に寝ていましたが、起き上がりました。起き上がってから、幽体が離脱し始めたのです。」
 「その時かどうかは知らぬが、しきりに起き上がろうとするので、私は勝良(新樹の兄)に抱き起こさせた。」
 「父が起き上がると、幽体は足の方から上の方へと離れ始めました。幽体と肉体とは、無数の紐で繋がっていますが臍の紐が一番太く、足にも紐があります。脱け出たところを見ると、父は白っぽいような着物を着ておりました。
 僕は足の方から幽体が脱けかけ、頭の方へと申しましたが、それはほとんど同時といってもよい位です。そして無数の紐で繋がれながら、肉体から離れた幽体は、しばらく自分の肉体の上に、同じような姿で浮いているのです。そして間もなくそれらの紐がぷつぷつと裁断されて行きました。これが人生の死、いわゆる玉の緒が切れるのです。」
 「どの紐から切れ始めたか。」
 「臍のが一番先で、次が足、頭部の紐が最後でした。紐の色は白ですが、少し灰色がかっております。そして抜け出た幽体は、薄い紫がかった色です。
 なに! 紐が切れる時に音でもしたかというのですか。それは音なんかしません。その切れるさまは実に鮮やかで、何か鋭利な刃物ででも切られたのではないかと思われるほどでした。
 僕はまのあたりに父の幽体の離れ行くさまを見て、実に何ともいえぬ感慨に満たされました。この離れた幽体は、しばらくそのままでおりましたが、やがて一つの白い塊となって、いずこへか行ってしまいました。それから後のことは、僕には何もわかりませんでした。
 「僕は父などと違い、大変な執着を持っていました。第一に肉親に対する執着。――この執着から先ず離れねばならぬと、神様から申されましたが、これは忘れようとして容易に忘れられるものではありません。このためにどれだけ神様に叱られたかわかりません。そのお蔭で、今日これまで仕上げられたのです。父もあれだけの事業を残されたので、執着も必ずあることだろうと思います。
 父はかねがね両親のことを心配しておられたから、神様からお許しが出たなら、まず第一に面会されるだろうと思います。その時は僕もお供をしましょうし、また通信もするでしょうが、何を申すにも、今はまだ帰幽後まもないことで、僕はよそながら幽体の離れ行く状況を見て、それを伯父さんにお話しする程度にすぎません。伯父さんの方に、何か問題がおありでしたら、僕が神様に伺ってお答えしましょう。

 この幽体離脱の状況は、本人の見るところとも、また他の霊視能力者の見るところとも大体一致しております。で、人間の死んで行く状態は、多少異なるところがあるとしても、大体こういったものと思えば大差なしでしょう。

      浅野和三郎『新樹の通信』 =第三編= 〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 36-44(現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 はじめの文章を書かれた浅野正恭氏は和三郎先生の兄上で、海軍中将であった人です。新樹氏からの通信に立ち会っていたように、霊界通信や和三郎先生の心霊研究のよき理解者でした。ここでは、新樹氏が小桜姫から和三郎先生の病気を知らされ、神様に回復をお願いしたことが述べられています。しかし、それは叶いませんでした。それで新樹氏は「泣く泣くこちらへ来られる際の安らかならんこと」を神様にお願いしたのですが、それは受け容れられて、「心配せずとも宜しい」と神様は申されました。

 私たちの死ぬ時期も死に方も、このように天の摂理によって定められていることがわかります。そしてここでは、神様にお願いして父の臨終の模様を見せてもらったと新樹氏は言っていますが、これは極めて貴重な稀有の記録だと思われます。「僕はまのあたりに父の幽体の離れ行くさまを見て、実に何ともいえぬ感慨に満たされました」という新樹氏の感慨には心を打たれます。人は死ぬ時にはみんな、このようにして、肉体から幽体が抜け出し、玉の緒が切れて霊界へ向かっていくようです。(2014.05.30)

  51.  六、 天 狗 探 検 譚

 この前伯父さんと約束しておいた、天狗の探検ですが、僕は第一に、その事を指導役のお爺さんに相談しました。お爺さんも賛成してくれ、解らぬところは教えてやるからというので、僕は一人で出かけることにしました。
 天狗といっても、それには高尚なもの、やくざなもの等、たくさん種類があり、またその数も大へん多いそうです。その中で僕の訪問しようとするのは、ZKという名前の天狗さんです。聞くところによれば、この天狗さんは大分年功を経ており、身体には毛が生え、ちょっと動物らしいところがある霊魂だそうで、かなりのお爺さんですが、時には若い風もするとのことです。
 種類も沢山、数も多い天狗さんを、どこにどうして尋ねてよいか見当がつきません。そこで指導役にお尋ねすると、とにかく深山を目がけ、心の中でその天狗の名を念じて行けばよいとの事でしたから、僕はそうしました。服装ですか。それはこの場合でもあり、慣れた洋服を着て行きました。
 やがて聞いた通りの山路にさしかかりましたが、路は随分険阻です。が、現世のような危なっかしい感じはしません。深い谷間もあり、四辺の草木の色は鮮やかで、美しい花なども咲いており、鳥の鳴き声も聞えます。こちらには夜がありませんから、僕は気永な登山気分といった按配で進んで行きました。天狗さんの名を心に念じつつ……。
 と、はるか彼方の山の木立の中に、家が見えました。屋根が反りかえって、支那風に赤く青く彩色してあります。いつもそんな家がある訳ではないが、僕が尋ねて行くというので、急いで造ったものでしょう。どうも人が訪問してくる時に、家がないのは具合が悪いもので、僕にもそうした経験があります。多分指導役のお爺さんが、前以て通知しておいてくれたのでしょう。
 門の柱などはありませんでしたが、門からかなり離れて玄関がありました。そこにはZK 閣と横に書いた額が懸っていました。書体もどうやら支那風です。そこで僕は「ご免下さい」といって案内を請いました。すると若い男が取次に出てきたが、その服装は黒い毛の繻子のような、支那風の服を着ていましたが、僕は近頃は霊眼が利くので、ちょっとそれを働かせますと、正体はやはり天狗でした。
 来意を告げて取次を頼むと、やがてZKさんが出てきましたが、やはり老人の姿でした。背はかなり高く、年の頃は七十位に見えます。白い髯を生やして、ちょっと兜巾に似た面白い帽子をかぶり、支那服に似て少し袖の広い、鼠色の服を着、立派な草履を穿いております。僕は案内されるままに上り、一間に通りましたが、立派なテーブルと椅子が備えてありました。家の飾りつけなど、何れも支那好みです。庭も木石の配置など美事に出来ていました。この天狗さん、初めはどうも支那に住んでいたらしいのです。
 椅子に腰をかけてから、僕は身の上をあらまし話し、今度訪問したのはほかでもなく、こちらの様子を現世に通信したいからだと申しますと、よくそんなに早く通信出来るようになったものだといって、お爺さんは大いに褒めてくれましたよ。
 僕はこの天狗のお爺さんに、いつもここに住んでおられるのかと訊きました。すると、天狗さんは、いやいやなかなかそうはいかない、GDという男によく呼ばれて、そっちの方へ出かけて行かねばならぬと申します。もっともそうでない時は、主に山の中で生活しているが、時にはまたその男を山へ連れてきて修行をさせることもある。この修行中は、その男に何も食べずともよいようにしてやる。その法はその男にも教えてある。またこの山には、薬草が沢山あるので、色々な薬を製造して、前にはその男に渡していたが、今では製造法をその男に教えて作らせることにした。このほか木の実や何かで、葡萄酒に似たような飲み物も作るが、その製法もその男に教えてあると、言っていました。
 それから僕は、どんな事でも出来るかと訊ねますと、どんな事でも出来るといいます。品物を取寄せることなどわけはないといいますから、それでは僕の生前好物だったザボンを、現世から取寄せてくれと頼みました。すると天狗さんは、暫し静坐瞑目しました。僕はこの時とばかり目を凝らして、どうするのかと見ていました。やがて老人の体がブルブルッと震えたなと思った瞬間に、大きなザボンが、もう僕の前にあるんです。どうしてこうなるのか、とうとう僕にはわからずじまいです。
 僕はそのザボンを持ってみましたが、どうも現世の物よりは軽い。そこで僕は現世の物が欲しかったのだと申しますと、現世のものを取寄せることは、ここでは少し具合が悪いというのです。しかたがないから、僕は天狗界産のそのザボンの皮を剥いてみました。やはり水気がなく、実も少しかさかさしています。色は紫がかった、実に綺麗なものでした。
 物品引寄せはこれ位にして、僕は今度は奇蹟を見せて欲しいと頼みました。この天狗さんは、野蛮じみたところがないので、物を頼むのにも甚だ頼み易いのです。すると天狗さんは、外へ出ようといいます。僕は姿でも消すのかと思いながら、跡について庭に出ました。庭には川が流れていてそれに橋が架っています。天狗さんは橋を渡って行きますから、私も渡ろうとして、橋に一歩足をかけた途端に、天狗さんの姿も、橋もなくなりました。何だか狐にでもつままれたような恰好で、しばらく佇んでいると、二、三間川上のところに、同じような橋が架っており、そこにお爺さんもちゃんといます。こんな芸当は、天狗さんには朝飯前の仕事で、わけなく出来るらしいのです。
 それから山の方へ行って、直径二尺もあらうという松の大木をへし折りました。それが大きな音を立て、僕の方へ倒れてくるのです。が、僕はいささか自信がありますから、退こうとはしませんでした。もちろん当たるようなことはなかったのです。木を折る時に、天狗さんの姿がちょっと見えなくなりましたが、木が折れると出てきて大そう自慢らしい顔つきをしていました。
 それから僕は、この家は、僕が来るために造ったもので、ふだんは洞穴の中にでも住んでいるのかと訊きましたら、お爺さんはちょっと変な顔をしていましたよ。が、恐らく僕の言った通りなのでしょう。そこで僕は、現界へ通信する必要があるから、どうかこの家を崩壊させて頂き、その有様を見せて貰いたいがと頼みました。天狗さんは快諾して気合のようなものをかけました。すると、赤く青く濃く彩色してある家が、だんだん淡くなり、上の方から下の方へと、自然に消えて行きました。実に手際は鮮やかなものです。
 そこで僕はまた天狗さんに頼みました。家の崩壊するところは見せて貰いましたが、今度は家を造るところを見せて頂きたいと。これも天狗さんは快諾され、やや暫らくすると、また気合のようなものをかけました。すると何もなかった地面の上に、これは前とは反対に、下の方から上の方へと、赤い青い色がつき始め、それがだんだん濃くなって、前の通りの立派な家が出来上がりました。その出来上った家を僕は触ってみました。僕が自分の家を触ってみた感じは、何だかカサカサしているのですが、この天狗さんの家も、同じような感じがしました。支那風のどっしりした風には見えますが……。
 これで大概の目的を達しましたから、僕は辞去することにして、天狗さんに、今度は僕の家へ来られるよう約束しました。今度は僕の方から天狗さんを煙に巻いてやりましょう。その時には佐伯さんにも来てもらうことにしましょう。

      浅野和三郎『新樹の通信』=第三編=〔本文復刻版〕
        潮文社、2010年、pp. 45-50 (現代文訳 武本昌三)

 現代文訳者私感

 ZKという名前の天狗さんとどのようにして会えるのか。新樹氏は指導役のお爺さんから、「深山を目がけ、心の中でその天狗の名を念じて行けばよい」と教えられます。祈りもそうですが、念ずることの意味をここでも考えさせられます。新樹氏はその天狗さんに会って、霊界通信が「よくそんなに早く出来るようになったものだ」と褒められますが、これは、霊界通信が誰でも簡単に出来るものではないということでしょうか。

 天狗さんから、どんなことでも出来るといわれた新樹氏は、生前好きであったザボンを取り寄せてもらったと言っています。しかしそのザボンは、現世の物よりは軽く、水気がなくて実も少しかさかさしていました。現世のものを取寄せることは、ここでは「少し具合が悪い」とも言われました。新樹氏の要請に応じて、天狗さんは家を造ったり壊したりするのを見せてくれましたが、これもやはり念の力によるものと思われます。(2014.06.06)

    *浅野和三郎著 『新樹の通信』 の現代文訳はこれで完了しました。

<巻末付録>                 [使用許諾を得た抜粋]

「和製スピリチュアリズム」について

東京シルバーバーチ読書会主宰 須江克則
元日本心霊科学協会評議員
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スピリチュアリズム研究ノート
http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2017/03/13-2716.html

演題 『シルバーバーチの霊訓』のポイント解説
――公益財団法人、日本心霊科学協会:2018年2月の公開月例講演会、講演録――

3.「和製スピリチュアリズム」について

①.日本的な神観(多神教)の問題点

ア)言葉の定義

一般に使われている「和製スピリチュアリズム」という用語は、使用する人によって概念がまちまちです。そのためここでは日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と「近代スピリチュアリズム」が結びついて生まれたスピリチュアリズム、「血縁を中心とした霊的世界観」に立ったスピリチュアリズムを「和製スピリチュアリズム」と定義します。

昭和48年に日本心霊科学協会が発行した、板谷樹・宮澤虎雄著『心霊科学入門』という書籍があります。この本の特徴を端的に言えば「血縁を中心とした霊的世界観」と「近代スピリチュアリズム」の成果がミックスされた書籍であると言えます。具体例を挙げれば、188頁の守護霊の説明箇所、257頁の曽孫となって再生する箇所、277頁の改宗の箇所(→先祖霊が子孫の改宗を不満に思うのは、本人自身にいまだ霊的自覚が芽生えていないから。幽界の下層世界を抜け出せない物質臭の強い霊だから。当時は定評ある書籍であったがシルバーバーチの観点から見れば問題点が見えてくる)など。この書籍には「血縁を中心とした霊的世界観」に沿った記述が多数見受けられます。

時間的な制約がありますので、今回は「和製スピリチュアリズム」のベースとなっている「血縁を中心とした霊的世界観」のみを取り上げることにします。この霊的世界観を『シルバーバーチの霊訓』や『モーゼスの霊訓』に代表される「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の立場から、主な問題箇所を検証してみたいと思います。

イ)伝統的な「霊的世界観・神観」

日本の伝統的な「霊的世界観・神観」は、死者の魂は「弔い上げ」によって、初めて汚れを払い去って清まり、個性を失って先祖の霊に融合して祖霊となる。供養の対象となる死霊が祖霊となり、祖霊が神格化して祖神や氏神として祭られるという「死霊→祖霊→祖神・氏神」という血縁をベースにした流れです。

さらに神道の神観も「神」と「祖先」との間には明確な境界がなく、渾然一体のものとして扱われており、遠い祖先は祖先であると同時に「神」としても崇められております。ここから基本的な図式として「親」の延長線上に「祖先」がいて、その先に「祖神」が控えている考え方(親→祖先→祖神)です。神道の神観も血縁や血統を重視した「霊的世界観・神観」です。その背景には「一族中心の血縁者の世界観(農地や家名が代々継承されていく)」や「氏神・氏子的な共同体の存在(神格化した祖霊である氏神を中心とした共同体)」という血縁や血統を重視した考え方が前提にあります。

この考え方に立って“祖霊”は「血縁集団としての個性を失った先祖の霊魂の集合体」であり、再生は「祖霊という霊魂の集合体からの生まれ変わり」であると説かれております。

ウ)『シルバーバーチの霊訓』からの問題提起

シルバーバーチの観点から日本の伝統的な「霊的世界観・神観」を見てみると、そこには明らかに問題となる箇所が幾つか見受けられます。此処では次の三点を取り上げます。まず「八百万の神」や「人格神崇拝」の問題がありますが、この問題はすでに「シルバーバーチが説く神とは」の箇所や「高級霊信仰や指導霊信仰を批判する」の箇所で述べましたので省略します。

<下記はその省略箇所>——————————————————-

③.「高級霊信仰」や「指導霊信仰」を批判する

ア)高級霊は完成を目指して「修行途上にある霊」

シルバーバーチの観点から云えば高級霊(指導霊・支配霊など)とは、霊的進化レベルが私たちの一歩先を行く個別霊のことであり「神」ではないです。私たちから見れば兄や姉のような存在になります。指導霊などの高級霊の役目は、担当する「人、組織、建造物、地域など」を霊的面から指導・監督することにあります。これらの役目を通して自らも神の属性を100%近くまで発揮すべく、日々霊性レベルの向上に励んでいる、言わば「修行途上にある霊」と言えるでしょう。

霊的な理解は霊的発達程度に応じたもので(霊格が50%の霊の理解力は50%程度)、その霊の霊的レベルが限界となるため高級霊といえども完璧ではありません。そのため場合によっては指導や監督の際に誤りも犯すこともあります(6巻207④~⑧)。絶対に誤りを犯さないのは創造者の「神」のみです(8巻18⑤)。

イ)「指導霊崇拝」を批判する

シルバーバーチは「指導霊は崇拝対象とされることを望まない」「指導霊の資格を得た霊は自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識を持っている」と述べて、「高級霊崇拝」「守護霊崇拝」「指導霊崇拝(8巻18③)」「イエス崇拝(5巻206⑧)」を批判しております。最終的な責任者(絶対神)ではないからです。

戦争が絶えない地球という霊的進化の低い惑星で体験を積む人間から見れば、相対的に霊の顕現レベルが高い霊は、どの霊も一様に見えてしまうようです。例えば10歳の小学生から見れば、授業参観日に来た母親(30歳~50歳代)は全て同じように見えるのと同様です。

現代社会では宗教の世俗化が進んでおり、「神」に対する考え方は多彩です。そのため共通の認識が得られにくくなっていると言われております。日本では「宇宙を創造した造化の神」「記紀神話の神」「人間が神となった人格神」「民俗神」など、総称して「八百万の神」として崇拝の対象としております。ここで信仰や崇拝の対象とされている「神々(造化の神を除く)」とは、主に霊の顕現の割合が高い個別霊(高級霊)のことになります。そのため「八百万の神」信仰には「指導霊崇拝」や「人格神崇拝」の問題が常に存在します。

———————————————————<省略箇所はここまで>

次に「死霊」の問題があります。死霊が祖霊化する“祖霊化過程”の期間について『宗教学辞典』(東京大学出版会)の記載によれば、「我が国では俗に“弔いあげ”という仏式による33回忌または49回忌までが一般とされている。この期間の祭祀供養を終えた個々の死霊は祖霊となり、やがて抽象的な集団の不死性を持つ祖先の中に解消されて、先祖崇拝へと展開する」(231頁)とあります。この問題は後で述べる「祖霊祭」の箇所で述べることにします。

此処で取り上げるのは「抽象的な先祖の集団」や「祖霊という集合体の生まれ変わり」です。これをシルバーバーチの観点に立って批判して見ます。

個別霊には二面性があります。まず一つ目の側面として「客観的存在(本来の私)」があります。全ての個別霊は100%個性発揮を目指して(個性化の道のこと)、永遠の旅を続けておりますので個性を失ってしまうことはないです。この「本来の私」が因果律の主体となる私であり、カルマを作ってしまった場合はこの私が償うことになります。再生する場合は「客観的存在(本来の私)」が再生します。但し現実に地上に再生するのは「客観的存在(本来の私)」の一部分ですが(→「小さな区画のインディビジュアリティ」に“利己的に働く意識”がジョイントされたのが「現在の私:パーソナリティ」という意識)。

次に個別霊の二つ目の側面として「主観的存在(拡大した私)」があります。これは同一霊格で親和性のある複数の個別霊ⒶⒷⒸⒹⒺⒻによって作り出される共有意識のことです。

分かり易く例えれば、相思相愛の度合いが極めて強い夫婦の主観的感情(類魂意識の原初的形体)といえばイメージが湧くと思います。このように個別霊には「客観的存在」と「主観的存在」という二面性があります。

日本の伝統的な「霊的世界観・神観」で述べられている「抽象的な先祖の集団」や「祖霊という集合体」という考え方は、霊の二面性から見て問題があります。個別霊を「客観的存在」から見れば、すべての“霊は神の属性の100%発揮”を目指して、永遠の旅(個性化の道のこと)を続けている旅人であり、旅の途上で個性を失ってしまうことはないからです。また「主観的存在」の類魂意識(グループソウル)は、同一霊格でしかも親和性が強い複数の個別霊が作り出す共有意識のことを言います。祖霊というだけで親和性や霊格の違いは一切考慮されずに融合・同化されてしまう(抽象的な先祖の集合体)、とするのは問題があります。

シルバーバーチが述べる「霊界は霊的成長度に応じたヒエラルキーの世界」や、「霊界は霊的親和性によって結ばれた世界」との観点に立てば、日本の「血縁や血統を重視した霊魂観・神観」は極めて一面的な見方に過ぎないといえます。霊界全体から見れば例外的なケースが宇宙を支配する原則とされていますが、これは“進化の距離感に応じて愛の表れ方が異なる”に対する理解が、不十分な点から来ていると言えます。

結論から言えば「血縁重視の霊的世界観」とは、幽界の下層に居住する「明確な霊的自覚」をもたない霊の考え方です。また「八百万の神」信仰には、「高級霊崇拝、指導霊崇拝、人格神崇拝」の問題が存在します。さらに「家制度」は明治民法によって創設されたものです。このように「血縁重視の霊的世界観」は、霊的成長の一時期に霊が持つ世界観のことであり、霊的成長に伴って捨て去られていくものです(霊的法則の基礎を学ぶための最良な手段の一つが“血縁重視の愛”や“血縁重視の霊魂観”となっているため)。

エ)学者からの問題提起

通説になっている「日本固有の霊魂観・祖霊観」には学者から批判があります。宗教学者で東北大学教授の佐藤弘夫氏は著書『死者のゆくえ』(岩田書院)の中で「柳田の祖霊観は、日本列島に一貫して存在する『日本人』のそれを示したものではなく、江戸時代以降に新たに形成される霊魂観を前提として形成されたもの」(182頁)と批評していいます。通説になっている柳田説は近世以降に作られた「祖霊観・霊魂観」であるという。

②.因果律と自己責任から見た「因果律の拡張、業因縁の継承」の問題点

ア)「家」の観念

日本における因果律は、「仏教の縁起(因縁生起)」に「先祖崇拝思想」と「家の観念」が結びついて、国民の間に広く受け入れられてきたものです。「先祖崇拝思想」の痕跡は既に縄文時代には見られると言われています。考古学者の丹羽佑一氏の「他界観念」には「縄文人は他界の観念を持っていた。ヒトに魂が内在する観念を持っていた~」(同成社発行『縄文人の考古学11』199頁、所収)とあります。ここからも「先祖崇拝思想」は古代人の「素朴な霊魂観」から生まれたものと言えます。

江戸時代の「家制度」は「家禄制度」と結びついた武家階層や公家から始まり、徐々に豪商や豪農に広がっていきましたが、名家でもなく資産も無い大部分の庶民には初めから無縁な制度でありました。それが明治31年(1898年)制定の明治民法によって、全国民を対象とした「家制度」が創設されました。

著名な民法学者の中川善之助氏は「日本には二つの家族観がある」として、「一方に由緒正しき家系の名家名門である上層の『家』を基準に考えるもの」「他方に戸主も家族も働いて共同生活をまっとうしている庶民の『家』を基準に考えるもの」があると度々述べています。明治民法の制定によって、日本における「家制度」は、従来の「上層の家」から「庶民の家」へと拡大されました。

イ)自己責任の原則

宗教では「先祖から流れてきている悪因縁は、身内の誰かが消さなければならぬ」として、この流れを断ち切るには「布施心が悪因縁を解消する最も良い方法」であると言われています。世俗的な心霊の世界でも、頻繁に「親の因果が子に報う(→先祖が犯した悪い行いが原因で、何の罪もない子がその報いを受けて不幸になる)」が説かれています。

これに対してシルバーバーチは、原因(因縁)を作った者は自ら償いをして刈り取らなければならないという「自己責任の原則」(6巻58①⑦、59⑫)を述べております。この「自己責任の原則」から見れば、孫は祖父が蒔いたタネ(因縁)を祖父に代わって刈り取ることはできません。祖父の因縁は祖父自ら何らかの形で、霊界でまたは再生して刈り取りをすることになります。

孫は再生するに当たり、自身の因縁を解消するためには、日本という民族集団が有する大枠としてのカルマを使って、さらに「祖父の家」に生まれて、この家に存在する“カルマの流れ(例えば代々の当主は極端な吝嗇家であり、そのために作り出したカルマ)”を利用しながら、自分自身のカルマの解消をはかるのが最も適していると判断して再生したものです。血縁を重視して「祖父の家」に再生したのではありません(通常、祖父という霊魂と孫という霊魂の間には血縁関係はない)。

このように一般に世間で言われている「因果律の拡張、業因縁の継承」は、シルバーバーチが述べている「各自が各自の人生の重荷を背負う」という因果律の原則から見ると問題があります。

③.血縁重視の霊的世界の問題点

ア)旅の行程

一般的な旅の行程は「A:死、寿命が尽きる」―→「B:“死のプロセス”を滞りなく手引きしてくれる指導霊との出会い」―→「C:明確な死の自覚を持つ」―→「D:明確な霊的自覚を持つ」―→「E:霊界(狭義)に入り霊的家族と再会する」という流れを辿ります。

上記Cの意識が持てなければ地縛霊となります。上記Dの意識が持てなければいつまでも「幽界の下層界」から抜け出せません。

Cの意識を持った霊がDの意識を持つ迄には、長い時間かかるのが一般的であると言われています(10巻60⑦参照)。スピリチュアリストは地上で霊的知識を学んでいるため、このDの意識に到達するのが一般人よりも早いという。この世で霊的知識を学ぶことの大切さがここからも言えます。

イ)地上に通信を送ってくる霊とは

幽界の下層の住人の意識は、地上時代に培った意識をそのまま引きずっております。幽界生活が長くなると、次第に霊の表面意識に「霊的自覚(霊的実相の理解)」が芽生えてきます。この自覚の芽生えによって、地上時代の体験によって独特な色に染まった潜在意識(地上的人格が用いてきた意識で「小さな区画のインディビジュアリティ」のこと)と、さらに大きな潜在意識(本来の私、インディビジュアリティ)を分けていた障壁が崩れ出して行きます。地上時代に培った意識(地上体験によって色つきとなった潜在意識)は、徐々に「本来の私(インディビジュアリティ)」の中にとけ込んで行きます。地上の関心は薄れてきて霊的実相への関心が高まって行きます。

一般に中学を卒業して高校に進学した子供たちは、5月の連休頃まではいまだ高校生活に馴染めず、頻繁に中学時代のクラスメートや部活の後輩に連絡を取りたがります(この状態が幽界の下層にいる霊の意識状態)。夏休み近くになると次第に高校生活に溶け込んで行き、中学時代の回想に浸る時間も減ってきて、高校生活をエンジョイすることに関心が移って行きます(霊的自覚の芽生えによる急激な霊性の進歩)。9月の夏休み明けともなればすっかり高校生らしくなっています(狭義の霊界に舞台を移す)。

シルバーバーチは次元の異なる地上に通信を送ることは「容易なことではない」「大へんな努力を必要とする」ので、通信霊は必然的に「愛念を抱く者に限られる」(1巻89)と述べています。ここから多くの霊界通信は意識の関心が地上に向いている、物質臭の抜けきらない幽界の下層に居住する血縁者からのものとなります。ここに血縁重視の霊界通信が多くなる理由があります(例えば高校に進学した生徒が中学時代のクラスメートや部活の後輩の面倒事に、自分の休みを犠牲にしてまで駆け付けて世話を焼きたがる意識状態と似ています)。霊的自覚を持った“狭義の霊界”に居住する霊は、地上時代の事にはほとんど関心が無くなっています(20年前に退職した職場での仕事のことは、今の自分に関係なければ殆ど忘れ去っているものです)。

このように考えると地上時代の血縁に縛られている霊とは、幽界の下層に居住する「霊的自覚」が芽生えない霊だけであり、「霊的自覚」が芽生えてきた霊は、物的波動の強い“血縁中心の意識”から徐々に脱して霊的成長の道を歩んで行くことになります。

ウ)幽界の下層に住む霊の意識

人間は死んで物的身体を脱ぎ捨てれば、誰でも直ちに「高次の意識(本来の私、インディビジュアリティ)」が自覚できて「模範的な霊界人」になれるわけではないです。物的身体を脱ぎ捨てても帰幽霊は地上時代に培った「偏見や性癖」から直ちに解放されることはありません。霊の「表面意識(霊の顕在意識)」には、相変わらず「偏見や性癖」に満ちた意識が存在しております。

ただし肉体をまとうことによって利己的に働いていた意識(生命維持、種族本能、権勢欲、所有欲など)のうち、肉体の存在と密接に繋がった意識(生命維持や種族本能など)は弱まって行きますが、「権勢欲や所有欲」などの意識は供給源が断たれてもすぐには弱まらないようです。さらに一時的に「偏見や性癖」も強まります。地上にいた時より「小さな区画のインディビジュアリティ」からの霊的意識は表面に出やすいですが、地上体験で色つきとなっております。

物理の法則に「運動している物体はいつまでも等速直線運動を続ける」という「慣性の法則」があります。この法則を用いて霊的自覚を持つまでの霊の意識状況(前述のC意識からD意識へ)を説明してみます。

地上時代に形成された「偏見や性癖」、さらに「権勢欲や所有欲」などの意識は、物的身体が無くなったからといっても依然として持ち続けております。なぜなら本人が自ら変えようとする意思を起こさない限りは、そのまま「等速直線運動」が継続されることになるからです。死後の世界で「霊の表面意識」に霊として何を為さなければならないかという「霊的自覚」が芽生えてくれば、この自覚が摩擦力として働くことになるので、「偏見や性癖」などの意識の持続は、徐々に失速して行くことになります。

帰幽霊の意識は「偏見や性癖」に満ちた表面意識(血縁重視の強い意識)と、霊的自覚が芽生えてくるまでは表面に浮上してこない「大きな霊的意識(本来の私、インディビジュアリティ)」という二重構造になっております。そのため地上時代の体験によって形成された「利己的、冷酷、享楽的、血縁重視」といった意識は、「霊の表面意識」の中に「霊的自覚」が芽生えてくるまでは、「偏見や性癖」と言う形で占有し続けることになります。

物質臭が抜けきらない幽界の下層にいる霊界人とはこのような意識構造を持った霊たちです。「霊の表面意識」の中に「霊的自覚」が湧いてくるまでは霊的成長はゆっくりとしたスピードです(一種のクールダウンの過程が必要だから)。なぜなら大きな意識であるインディビジュアリティは、霊的成長と共に少しずつ浮かび上がってくるものだから。

数多い帰幽霊の中には、地上体験によって「残忍さ・傲慢さ・貪欲・淫乱」等といった“歪んだ欲望”を培ってしまい、表面意識に深く染みこませてしまった霊もいるでしょう。霊にとってはその内面の世界が死後の住環境となるため、歪んだ性癖や習性が苦悩を引き寄せることになります。引き寄せた苦悩が現実となる住環境で、厳しい体験を経ていく中で、次第に表面意識にある歪んだ性癖は修正されて行きます(宗教で言うところの煉獄や地獄のこと)。霊によって長短はあるものの内部から霊的自覚が芽生えてくるまでは、矯正のための界層に留まることになります。

幽界において「霊的自覚の芽生え」に始まって、徐々に霊的自覚が深まっていった霊は、次第に霊的進化のスピードが速まって行きます。それに応じて潜在していた「大きな霊的意識(本来の私、インディビジュアリティ)」が表面意識の中に浮かび上がってきます。このように幽界生活とは「物質臭の強い表面意識(地上体験によって色つきとなった小さな区画のインディビジュアリティを含む)」を中和させて、「大きな霊的意識(本来の私、インディビジュアリティ)」の中に穏やかに溶け込ませていく過程に他ならないです。物質臭の強い状態で直接溶け込ませることは出来ないため、意識の二重構造は不可欠となっております。これら一連の霊的波長の調整が完了した個別霊は、次の世界である“狭義の霊界”で待つ霊的家族のもとに帰って行きます(但し、血縁中心の“家族”ではない)。

4.精神統一と祖霊祭について

ア)精神統一(瞑想)のメカニズム

人間を固有の周波数を持った“通信装置”に譬えることができます。精神統一とはこの通信装置の“アンテナの錆”を落とす行為と言えます。霊媒体質者の場合は先天的にアンテナが磨かれて感度が良好ですが、通常人は錆が付着して感度が悪い状態です。

私たちの日常生活では、親和性の法則から絶えず“通信装置のアンテナ”から雑多な思念を受け取っております。五感から入るさまざまな刺激に対して過敏に反応して、意識は興奮した状態にあります。

精神統一はさまざまな物に反応している状態を鎮めて、意識の焦点を自己の身体からずらせていく技法のことです。いわば統一者の“固有の周波数”に見合った霊的波長を持つ霊と、同調を良好にさせる行為であると言えます。ズレの程度が大きければ深い統一状態となり、ズレが小さければ浅い統一状態となります。統一の熟練者は容易く深い統一状態に移行できます。

上記のように考えれば、精神統一が習熟していくことと、統一者の心境(霊格)が高まることは必ずしもイコールではないことが分かります。精神統一はあくまで技法であり、アンテナを磨くだけにすぎないもの。坐っているだけでひとりでに霊格が上がることはないです。アンテナの錆落とし(=精神統一の実修)と同時に、通信装置の周波数を高める努力(=修養的生活と利他的行為)が必要となります。なぜなら統一によってアンテナの錆落としが進んだ分だけ、固有の周波数に見合った霊の影響をより一層受けやすくなるから。

イ)祖霊祭について

霊的に見れば「死」とは“シルバーコードの切断”のことであり、「死のプロセス」とは物的世界の粗い振動数を持つ肉体を捨てて、霊的世界のより細かな振動数に対応する身体に“脱皮”していく一連の現象のことを言います。話の順序として最初に地縛霊の定義を定めておきます。

地縛霊とは、死によって肉体を棄てたにもかかわらず、いまだに死の自覚がないため、身体は霊的世界にあるにもかかわらず、その世界の霊的波長に感応できずに、いつまでも物的波長の中で暮らしている霊を言います。つまり霊的調整が完了していない霊のことです。これが地縛霊の定義です。なお地縛霊には自縛霊という表記もありますが、此処では意識が地上に向いている霊という意味で用いているため(地上に縛られている霊だから)、地縛霊という表記を使用します。

このような霊は死の自覚がなく意識が地上に向いているため、周りで待機している救済霊とは波長が合わず地縛霊の視界に入りません。そのため救済の手が差し伸べにくい状態に置かれております。このような霊はいまだ死んだという自覚がないため、物的波長から霊的波長への切り替えが完了せず、霊的視力が使えない状態となっております。

物的波長の中にいる地縛霊には、地上人からの念が届きやすいので、血縁者の「死の自覚」を持たせる祈りの念は地縛霊に有効に作用します。病気で苦しいという思いを未だに持ち続けている帰幽霊は、物的波長から霊的波長への切り替えが完了していない地縛霊です。いまだに肉体から意識が離れない為、肉体に存在していた病に苦しめられているのです。この霊の表面意識に「C:明確な死の自覚」が浮き上がって来れば、意識の焦点が地上に脱ぎ捨ててきた肉体からずれるので、病の苦しみから解放されます。さらに霊的視力が開けて霊界の救済霊との接触が可能となります。そして霊界側が準備した「救済のプログラム」に従って「死のプロセス」を歩んでいくことができます。

このように「C:明確な死の自覚」を持てた以降の霊は霊界側が担当しますので、地上人が「供養」の対象とすべき霊とは「C:明確な死の自覚」が持てない帰幽霊のみです。この霊に死んだと言うことを明確に悟らせることがポイントになります。

比較的良質の交霊会の記録を読んで見て分かることは、地縛霊や地縛霊状態を脱して間もない霊は、縁のある地上の人間に憑いて一緒に学んでいることが多いようです。本来であれば「C:明確な死の自覚」持った霊は、救済霊が用意したプログラムに従って、霊界において「霊としての自覚」を深めていくのが一般的でしょう。しかしそのプロセスは画一的なものではなく、その霊にとって“心霊グループの霊的真理の学習会”が最も適していると思われれば、その場が有効に活用されているようです。

私たちが霊的真理を心から納得(→付け焼き刃的な理解ではなく霊の心の領域での理解)できれば、自分自身もその理解をあの世に持ち越すことが出来るし、その理解したという思念が霊にも伝わることになります。ここからも地上人の役割は大きいことが分かります。

なお霊的自覚を持った霊に対しては、子孫が行う「祖霊が霊界で一層の浄化・向上を祈願する」祈りは本来不要です。しかし霊にはその子孫の思いが温かい念となって伝わってくるため、現在の界層でさらに霊的向上に励む意識が強くなってきます。譬えれば20年前に退職した職場から、在職中の功績をたたえる式典への招待状を貰ったようなもので、本人はうれしいものです。これと同じ意識状態です。

日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」では、「死者供養(先祖供養)」は33回忌または49回忌の“弔いあげ”まで行い、これ以降は「初めて穢れを拭い去って清まる」。それによって人は先祖になるという(『柳田国男全集13』131頁参照)。

この世は「行為」の世界であるため、形だけの「先祖供養」でも、他人から見れば「感心な人」と褒められます。しかし霊界は「思い」だけの世界、「思い」の籠っていない形式だけの「行為」では何の効果もないです。縁故者が行う「思い」の籠った目覚めを促す祈りは、温かい念となって地縛霊の周りを包み込んで、目覚めの促進に役立ちます。目覚めの時期が来れば速やかに目覚めることになります。

帰幽霊の中には例外的に400年~500年の間、「明確な死の自覚」が持てないまま地縛霊状態を続けている霊もいますが、大部分の霊は死後ほどなく死んだという自覚を持つことが出来て、意識の切り替えが完了するようです。そのため供養で重要視されている「死霊が祖霊化する期間」にさほど意味はありません。日本の伝統的な祭祀供養は、余りにも形式偏重・物的偏重で霊的背景に対する理解が薄いです。

5.今回のまとめ

霊界の上層には「地球経綸の仕事に最終的な責任を負っている神庁」(9巻221⑬)があります。その神庁でシルバーバーチは「地球の霊的刷新」のために働いているといいます。そのため日本的な神観から言えばシルバーバーチは「八百万の神」の一人ということになります。このように「神々」の一人として崇拝される側に立つシルバーバーチは、ことある毎に「私に感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです」(9巻224⑪)として、崇拝されることを拒否しています。

このシルバーバーチの謙虚さの源泉は、階層構造的な霊の世界に於いて、自分の“立ち位置”をよく理解していることにあります。それは「宇宙について知れば知るほどますます謙虚の念で満たされる」(9巻24①)の言葉に表れています。このように『シルバーバーチの霊訓』は体系的な霊的知識を述べていることに留まらず、崇拝される側から「高級霊崇拝」の誤りを説いている点に意義があります(崇拝される側の気持ちを語っている)。

さらにシルバーバーチは「私は人間的要素を残しており誤りも犯せば弱点もあり不完全です」(11巻198③)とも述べています。なぜなら意識の中に「出身天体の属性」を色濃く残していると言うことは、太陽系や銀河系宇宙を自由に飛び回れる「超高級霊」の立場から見れば、いまだ進化のレベルは相対的に低いと言うことになるから。霊的進化のレベルが高くなればなるほど、一段と個性が強まり、意識(インディビジュアリティ)の中に残存する「出身天体の属性(人間的感情)」は次第に消えていくから。

このような人間的感情の中でも動物的感情に近い血縁重視の愛や感情は、地球人という「出身天体の属性」の中でも最も低い意識に属するため、意識が進化していく早い段階で消えていくものです。ここから「血縁重視の霊的世界観」は霊的成長の一時期に霊が持つ世界観であり、霊的成長に伴って卒業して行く意識であることが分かります。

このように日本的な「神崇拝」の問題点や、「血縁重視の霊魂観・神観」の問題点を指摘した『シルバーバーチの霊訓』は、我々日本人にとって意義ある書籍であると言えます。強くお薦めする次第です。

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武本昌三 現代文訳
 浅野和三郎 『新樹の通信』
http://www.takemoto-shozo.com/

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<巻末付録> 『和製スピリチュアリズム』について 須江克則

PDF初版 2019/03/02

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